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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 特攻基地「知覧」の現場で考えたこと   

文学部 人文社会学科フランス言語文学文化専攻 4年 野口 真菜美



2010年7月7日。年に一度の七夕の日、私は鹿児島県にある知覧にいた。空を見上げると、東京では見ることのできない数多くの星が瞬いていた。

私たち多摩探検隊は、名前の通り、多摩に埋もれている話題や人物を掘り起こし、番組を制作している。毎年8月には、4年生の卒業制作として、多摩地域にあった戦争をテーマに取り上げており、今年で6作品目となる。2010年8月放送は、かつて武蔵村山にあった東京陸軍少年飛行兵学校と、少年飛行兵の思いに迫った。私は番組プロデューサーとして制作に携わり、その過程で、多摩から遠く離れた知覧で撮影を行うこととなった。

それは6月中旬、長野県松本市在住の島田昌往さん(85歳)にお話を伺ったことがきっかけだった。島田さんは東京陸軍少年飛行兵学校を卒業し、19歳の時に特攻隊として出撃命令を受ける。そして、1945年6月、鹿児島県知覧飛行場から沖縄へと飛び立った。しかし、エンジンのオイル漏れで徳之島に不時着し、一命を取りとめた。

特攻隊員たちは知覧から出撃する前夜、「三角兵舎」という半地下式の建物の中で最後の夜を過ごした。島田さんは「俺は明日死ぬんだと、この世でいるのは今日だけなんだって思ったら、とても眠れたものではなかったよ」と語った。彼らはどのような思いで夜を過ごし、どのような思いで翌朝、空を見上げていたのだろうか。

島田さんの話を聞いた私たち取材班は、実際に島田さんが特攻隊として出撃した知覧を訪れてみたいと思った。島田さんや多くの特攻隊員たちが最後の夜を過ごし、沖縄へと飛び立っていった地で、彼らの軌跡を辿り、追体験したいと思った。

東京から800キロ離れた鹿児島県南九州市知覧町。知覧特攻平和会館には、一機一艦の突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料が展示されている。その中のひとつに島田さんが所属していた「第百十一振武隊若桜隊」の集合写真があった。また、戦没者一覧の中には若桜隊11名中9名の名前が刻まれていた。

私たちは薩摩半島最南端の開聞岳にも足を運んだ。知覧飛行場から飛び立った特攻隊員は開聞岳に敬礼し別れを告げ、沖縄へと向かって行ったという。海の上に大きくそびえ立つ開聞岳を前に、島田さんの言葉を思い出した。

「開聞岳に敬礼した後ね、エンジン音に負けないくらい大きな声でおかーさーん、おとーさーんって泣きながら叫んだよ...」

開聞岳と海、そして空しか見えないこの景色は、65年前と変わらぬものなのだろう。大空に憧れた少年飛行兵たちは、家族への思いを抱き、開聞岳に背を向けたまま沖縄を目指した。日本本土に迫る来る米軍に対し、弱冠19歳前後の彼らが、特攻隊として突撃せざるを得なかった現実を知り、戦争の非情さと残酷さを実感した。

私たちは、60数年前に起きた戦争の現実を知りたいと思い、体験者に話を聞き、平和について考えた。どれだけの惨劇が起こったのだろうか...。特攻隊員たちが過ごし、沖縄へと飛び立っていった知覧の地にたたずんでみても、実際に体験することは不可能だ。しかし、目で耳で肌で感じ、想像することはできる。

「戦争はどんなことがあってもさせてもいけないし、させたくもない。私は生き残った人間として声を大にして言いたい」という島田さんの強い思いを、私たちは後世に伝えていく義務があると思う。 なぜ私たちは、戦争と平和のテーマをVTRにまとめているのか。戦争体験者の話し方、息づかい、感情を、そのまま伝えたい。そして、「現場」の様子、音、色などそのまま形に残し、VTRを見た人に追体験してもらうためだ。このことが平和への一歩となるのではないだろうか。これからも、多摩探検隊は戦争と平和を「現場」から考え、発信していきたい。多摩から、日本全国へ。

by tamatanweb | 2010-12-01 00:00 | 制作日誌

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