無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「被害者は加害者で、加害者は被害者」   

 商学部金融学科4年 広瀬愛奈恵

 風船爆弾とは、名前の通り、風船に爆弾を搭載した殺人兵器だ。第二次世界大戦中、太平洋を越え、遠くアメリカ本土を攻撃するため、日本国内で製造された。その製造に従事していたのは、まだ十代の女学生たちであった。戦後、あまり取り上げられてこなかったため、知名度は他の兵器に比べて相対的に低い。しかし、アメリカが原爆を開発している時に、日本はこの風まかせの兵器を開発していたという事実に、私は驚いた。
 大学一年の冬、太平洋戦争について調べていたところ、偶然にも、「風船爆弾」という兵器を知り、興味を持った。さらに詳しく調べるうちに、製造に従事した「女学生」の証言は極めて貴重であり、彼女たちの思いをテーマにしたドキュメンタリーを制作したいと思うようになった。それは戦時中、私と年齢も近い女学生が、なぜ殺人兵器を作るに至ったのか、そして、どういう気持ちで兵器生産に携わったのかを知りたいと思ったからだ。
 撮影に入る前に、企画書や構成表を書かなければならない。先輩や先生にチェックを受けながら、何度も何度も書き直さざるを得なかった。全ては自分の実力不足のせいであるのだが、そのような進展のない毎日にうんざりしていた。そんな折、風船爆弾について事前取材させていただいていた方の一人が肺炎で亡くなったという連絡をもらった。
 私は「今聞かなきゃ、もう二度と聞けないかもしれない」という焦りを感じた。自分が取材している対象者は高齢で、あまり時間が残されていないことに、改めて気づいた。そこから必死になり、女学生と風船爆弾について調べ、沢山の関係者に会いに行った。
 女学生たちが作った風船爆弾は、茨城県、福島県、千葉県の三ヵ所から飛ばされた。その数、九三〇〇発。そのうち、一九四五年五月五日に飛ばされた風船爆弾の一個が、米国オレゴン州ブライに到達した。ピクニックに来ていた子どもが、爆弾と知らずに触ってしまい、その場にいた五人の子どもたち、母親とそのお腹にいた赤ん坊が爆発に巻き込まれ、全員が亡くなった。戦時中ということもあり、米国が情報を公開しなかったことと、日本側の終戦時の隠蔽工作により、長い間、この「オレゴンの悲劇」が公にされることはなかった。
 しかし、平和になり生活が落ち着いた後、女学生たちは自らの過去を調べるうちに、事実を知ることになる。
 元教師で、今も語り部活動をしている小岩昌子さんは、自分の生み出した兵器によって死者が出た事実を知ってから、ずっと葛藤してきたという。そして「私は、被害者であると同時に加害者でもあったんだと気づいた。戦争では、加害者が被害者にもなるし、被害者が加害者にもなるんです」と語った。この言葉は、私の心に突き刺さった。
 風船爆弾の実物が、米国のスミソニアン博物館に展示されていると知り、学芸員にインタビューするために、私はワシントンDCに向かった。
 スミソニアン博物館ウドバー・ハジー・センターに展示されている風船爆弾の実物の前で、学芸員であるトム・クローチさんが解説してくれた。彼は風船爆弾のことを、「とても不思議だが、人々を魅了する兵器だ」と言った。魅了という言葉に少し胸がざわついたが、この博物館の一角に、未だにひっそりと展示されている風船爆弾を興味深く見学する人々を目の当たりにし、この兵器の特殊性を再確認した。
 彼は、こう説明した。
 「風船爆弾を日本が放っていた時期、米軍は日本各地を空襲していて多くの民間人が犠牲になっていたという事実を忘れてはならない」
 日本が作った風船爆弾は米国の民間人を殺し、米軍の空襲は日本の民間人を殺した。戦争の現実を、彼はそう指摘したのだ。
 今回のドキュメンタリー制作を通して、私が学んだものはここでは書ききれない。「戦争中は、被害者であると同時に加害者になる」という元女学生たちの証言に、私は強い衝撃を受けた。この事実を、国境を越えて共有して行く必要性を感じている。
 私は制作したドキュメンタリーをDVDにして、取材に応じてくれた元女学生たちにお礼の意味で届けた。その方々は、語り部活動の際に、そのDVDを上映してくれているということを聞いた。戦後七十年以上が経った今、このドキュメンタリーが、戦争を知らない世代に証言をつないでいくきっかけになってくれればと心から思っている。

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by tamatanweb | 2017-01-01 00:00

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