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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 絶滅寸前の「ミゾゴイ」を追いかけて   

 総合政策学部政策科学科3年 中川健太郎

 「伝説の鳥ミゾゴイ」。ミゾゴイとは、東京都多摩地域に生息するサギ科の夏鳥である。江戸時代には、オランダ人医師のシーボルトが絵に描いており、身近な存在だった。しかし今では環境省のレッドリストに載るほど数を減らし、伝説の鳥となっている。私がミゾゴイの危機的状況を知ったのは、2015年3月のこと。多摩地域に絶滅危惧種がいることに驚いた。生物多様性が話題になっている昨今において、身近にある問題が広く知られていないことはおかしい。そう思った私は、ディレクターとして「ミゾゴイ」をテーマにした番組を制作し、2016年7月にケーブルテレビで放送された。
 しかし、私はこの番組制作を通して、「学生である自分の甘さ」を思い知らされた。2015年5月上旬、私はまずインターネットで、ミゾゴイが4~5月につがいを作るため「プープー」という独特な鳴き声をすることを知り、ミゾゴイの目撃情報が多いあきる野市の森で捜索を始めた。伝説の鳥と呼ばれる通り、簡単に見つけることはできず、鳴き声さえも聞くことができなかった。
 これに加え、長年ミゾゴイを調査している方への取材交渉にも失敗した。私たちのミゾゴイ捜索の現状や取材内容がしっかり伝わらず、私から熱意が感じられないと、その方に取材を断られてしまったのである。
 「多摩探検隊」制作プロデューサーから、同企画をボツにするという話まで出てきた。私は、このままボツにすることだけはしたくないと思い、新たな取材対象者を見つける努力を続けることにした。そして、神奈川県横浜市西区野毛山動物園で獣医をしている松本令以(れい)さんと、あきる野市役所にて森林レンジャーをされているパブロ・アパリシオさんを見つけ出し、インタビューを申し込んだ。やっとのことで、了解を得ることができた。
 松本令以さんは、2015年6月に全国で初めて成功したミゾゴイの繁殖に関わった方である。普段は野毛山動物園でミゾゴイの飼育をしながら、ミゾゴイの生態について研究されていた。
 インタビューでは、ミゾゴイの生態の詳細や飼育時の苦労を事務的に聞くだけで、臨機応変にお話を聞くことができず、リポーターと松本さんを困らせてしまった。それは学生気分が抜けず、受け身にしか行動していなかった私に原因があった。そのことを取材後、撮影に同行してもらったクルーに言われ、初めて気づかされた。
 前回の取材から反省し、様々なパターンの質問項目を用意して挑んだのが、パブロ・アパリシオさんへの取材であった。パブロさんはあきる野市で実際にミゾゴイを発見し撮影に成功し、現在もミゾゴイの調査を続けている方だ。インタビューでは、私のミゾゴイへの熱意が伝わったのか、当初予定していなかった撮影をすることができた。市役所内での撮影だけだったものが、普段どのように野外調査をされているかについて実際に外に出て、解説していただいたのである。パブロさんは、あきる野の森を見ながら、こう言った。
 「ミゾゴイのことだけを考えていては、より良い自然環境を生み出すことはできない」
 ミゾゴイの絶滅危機というミクロの問題から、生態系の保護というマクロな視野を得た瞬間であった。本やインターネットで調べた様々な情報を、一つ一つ実際に確かめることができ、今までに体感したことのない快感を得た。
 インタビューを終えた後、動画編集へと移ったが、ここでも壁にぶつかった。ミゾゴイの知識が増えたことにより、自分が知った情報だけをまとめただけの自己満足な動画を制作してしまったのである。誰に何を伝えたいのかを考えずに、行動した結果だった。そのことをゼミの先生から指摘されてからは、もう一度番組制作の意図を考え、編集し直す日々が続いた。そして番組が完成したのが、2016年6月のことであった。
 番組完成後、関わってくださった方々にお礼を言っていた時に気づいたことは、その人数の多さだった。取材対象者だけではなく、リポーターやカメラマン、動画や構成表をチェックしてくださった方など、改めて自分一人だけでは何もできないことを実感した。それと同時に私が本気で話をしなければ、本気で返してくれる方はいないことも思い知ることができた。今回の番組制作を経て、学生気分のまま受動的に物事に取り組むのではなく、人と積極的に関わっていくことを、強く心に誓った。

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by tamatanweb | 2016-11-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「シバくん」「ライオンバス」の番組リポーターを経験して   

 総合政策学部政策科学科3年 渡邉紗千

 私は第一四六回多摩探検隊「さよならライオンバス」の番組リポーターを務めた。リポーターに挑戦するのは二回目であった。一回目は今から一年前の大学二年生の六月。タバコ屋さんの看板犬「シバくん」と、そこに訪れる人々を取材した第一三五回多摩探検隊「多摩の名物店員を追え!」である。この番組では、私が小金井市にある「すずきたばこ店」を訪ね、そこで看板犬として活躍する柴犬のシバくんとそれを取り巻く人々についてリポートした。
 私がシバくんをリポートすることになったのは、些細なきっかけであった。私が所属するゼミの教授が「画面に出たら自然と笑顔になるような人をリポーターにしましょう」と提案し、私が選ばれたのだ。そして何の経験もないまま、ゼミに入っていきなりリポーターを務めることになった。とても楽しみな気持ちもある一方で、「自分に与えられた役目をきちんとこなすことができるのだろうか」「リポーターとして番組に貢献できるだろうか」という不安のほうが何倍も大きかった。撮影当日、いざリポートに挑戦してみたものの、言葉が全くと言っていいほど出てこなかった。インタビューしたときは、何を聞いて、どのような反応を返すのが正しいのかもよく分からず、相槌を打つことが精一杯であった。
 撮影を進めていくと、私たちはたくさんの人たちに出会い、見知らぬ人たちの間でコミュニケーションが生まれる瞬間に立ち会うことができた。「シバクンに会うために台湾からきた女性、メキシコから来た男性。国内からも多くのお客さんがやって来た。全くの他人同士なのに、シバくんを巡って、とても話がはずんでいた。小金井市の小さなたばこ屋さんで、グローバルな新しいコミュニティが出来ていることに驚き、そして心温まった。これは私にとってゼミ生活の中で大きな発見と経験となった。
 その後、私はまさか再びリポーターを務めるとは思っていなかった。しかし、番組「さよならライオンバス」の企画が持ち上がった時に、ディレクターを務める同期が、私をリポーターに指名したのだ。
 今年(二〇一六年)の三月三一日、多摩動物公園の「ライオンバス」が半世紀以上の歴史に幕を閉じた。理由はバス発着所になっている建物の老朽化である。人々から愛され続けたライオンバスの魅力について伝えるため、私たちは番組を作ることにした。私は、一回目のリポーター経験を活かして挑もうと決意したが、それでもやはり「自分でいいのだろうか」という不安と、「きちんとリポートできるのだろうか」という緊張を、拭い去ることはできなかった。
 そんな不安と緊張を抱えたまま、撮影は始まった。いざライオンバスに乗ってみると、ライオンの姿を間近で見ることができ、迫力満点であった。さすが百獣の王と言うべきか、身体にはたくさんの傷があるのでたくましかった。それとは反対にネコ科ということもあり、のんびりとした姿は大きな猫のようで可愛らしかった。
 ライオンバスに実際に乗った後、私たちはライオンバス乗り場で、ライオンバスから降りてきた人にインタビューをした。その中で私の印象に残ったのは、親子三世代で訪れていた家族だ。娘さんが小さい頃からライオンバスに乗っており、今回でいったん休止だということで、お孫さんも連れて親子三世代で来たというお母さんとお父さん。世代を超えてライオンバスが愛されているのだと実感した。最後に私が「またライオンバスが復活するのが楽しみですね」と言うと、そのお母さんは「今度はもう一人たくさんで来ようね」と言っていた。娘さんのお腹には二人目の赤ちゃんがいるという。私はライオンバスというものが、世代を超えて愛され、各々の「家族」の歴史の中に生き続けてきたのだということを改めて実感した。この番組を通して、リポーターとしてうまく何かを伝えられたのかはわからないが、ライオンバスが様々な人の大事な思い出になっている事実は伝えられたのではないかと思う。
 私は二本の動物番組のリポーターを務めて、コミュニケーションを取ることの難しさに改めて触れ、また良い言葉が出てこないことへのもどかしさも感じていた。しかし、それ以上にたくさんの人たちから様々な話を聞くことができたことは、何よりも嬉しかった。私はこれからも、現場で実際の声を聞き、多くの人に伝えることができるように、今後ともゼミ活動を頑張りたいと思った。

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by tamatanweb | 2016-09-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 終戦直後の日本を走った電気自動車「たま」-その知られざる歴史と熱い思い   

総合政策学部国際政策文化学科3年 神野菜々

近年、電気自動車やハイブリッドカーをはじめとするエコカーが注目されている。しかし戦後間もない日本で、電気自動車が普及していたことを知っている人は、どのくらいいるのだろうか。
戦後、米軍の占領政策によって、日本は飛行機の製造を禁止された。職を失った立川飛行機のエンジニアは、「飛行機がだめなら、自動車を開発しよう」と、1947年に電気自動車「たま」が誕生した。多摩地区で開発されたので、そう名付けられたという。
「たま」は、当時、日本全国で走っていた自動車の約8分の1を占めるほど普及し、主にタクシーとして利用された。
「たま」の物語をドキュメンタリー番組にすることができないか―。総合政策学部松野良一ゼミに企画を持ち込んできたのが、当時(2015年)同学部3年の宮下敬さん。自動車部に所属し、「たま」に興味を持っていた。自動車に詳しい宮下さんがリポーターを務め、私がディレクターとして番組を作ることになった。
私たちはまず、「たま」の歴史について知るため、デザインから開発までの全てを行った田中次郎さん(98)=東京都杉並区在住=のもとを訪れた。のちに日産自動車の専務、日産ディーゼル工業の副社長を務め、日本自動車殿堂入りを果たしている方だ。
田中さんは、「たま」が開発されたきっかけについてこう語った。
「ガソリンは統制されていて入ってこない。しかし、山間部の水力発電施設は難を逃れ、電力は余っていました。そこで、電気を動力とする電気自動車を開発することにしました」
しかし、1950年になると状況は一転する。朝鮮戦争が始まり、軍需によりガソリンの輸入が解禁されると、ガソリン車が急激に出回るようになり「たま」は次第に姿を消していったという。
私たちは「たま」がどんな車であるか知るために、車両が保存されている日産座間事業所を訪れた。
「たま」は、2010年に、日産社員有志の「日産名車再生クラブ」によって、開発当初の姿にレストア(修復・再生)されていた。私たちは、クラブの代表である木賀新一さん(50)にご協力いただき、撮影を行った。「たま」には、飛行機のタイヤカバーをモチーフにしたフェンダー(タイヤ部分を覆う泥よけ)をはじめとして、飛行機のエンジニアならではの革新的なデザインが散りばめられていた。
取材は決してうまくいったわけではない。とりわけ座間事業所では大きな壁にぶつかった。2時間で全ての撮影を済ませなければならず、私は一人で焦ってしまい、撮影スタッフに、テキパキと指示を出すことができなかった。ディレクターが現場を仕切れないと、そこにいる全員の動きも止まってしまう。リポーターをはじめスタッフを生かすも殺すも、全てディレクター次第であるということを学んだ。
撮影が終わり、編集に入ってからも行き詰まった。あまり自動車に興味のない人でも、見てもらえるような内容にするためにはどうすればいいか。開発者の田中さんや、「たま」を再生させた日産の方々の情熱とこだわりをどうやって伝えるべきか。朝から晩までパソコンと向き合い、春休みのほとんどを番組編集に費やした。
「田中さんと再生クラブの方々に負けないくらい『たま』に精通した人間になってやる」、「『たま』をもっと多くの人に知ってもらうためには、私がやらなくて誰がする」。意地と妙な使命感がいつの間にか芽生えていた。それからは、制作が楽しくて仕方がなかった。
番組が完成したときは、ようやく形になった達成感と、一刻も早く多くの人に番組を見てもらいたい高揚感でいっぱいだった。このときの気持ちを一生忘れることはないだろう。番組制作は自分を変える機会にもなった。もともと私は人に何かを任せるのが苦手だった。人に任せて自分の納得のいかない出来になるくらいなら、自分の仕事量を増やしてでも全部ひとりでやってしまいたい性格だった。今回の番組制作を通して、改めてコミュニケーションの大切さを思い知った。
取材対象者からうまく話を聞きだすにはどうすればいいか。欲しい映像を撮るためには、リポーターにどんな指示を出せばいいか。スタッフの士気を高めるには、ディレクターである私がどういう風に振る舞えばいいのか。カメラの扱い方や編集技術を含め、学んだことを挙げればキリがない。
「たま」を通して、いろんな出会いがあった。何より、戦後の歴史に翻弄された電気自動車と、日本の復興を信じて開発に奮闘したエンジニアたちの熱い思いに触れることができた。多くのこと学ばせてくれた「たま」に感謝したい。

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by tamatanweb | 2016-07-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「対馬丸」生存者の記憶-中央大学という絆-   

 総合政策学部国際政策文化学科三年 馬田翔永

 疎開船「対馬丸」と中大OB
 太平洋戦争中の1944年8月22日、鹿児島県悪石島近海にて一隻の疎開船が、米軍の潜水艦が放った魚雷によって沈没した。船の名前は「対馬丸」。戦況が悪化し沖縄攻撃も近いということで、同船は多くの子ども達を乗せ、沖縄から九州へと向かう途中だった。1788名の乗船者のうち、1484名が犠牲となった。その中には834名の児童が乗船していたが、生き残ったのはわずか59名のみだった。
平和な時代を生きる私にとって、約800名もの罪なき子ども達の命が奪われたこの事件は、大変衝撃的だった。私は興味を抱き、この事件を調べていると、一人の男性の名前を見つけた。仲田清一郎さん(80)。当時8才で「対馬丸」に乗船し、生き残った方である。そして何より目をひかれたのは、仲田さんが中央大学の卒業生であるということだった。
 私が所属するFLP松野良一ゼミでは、戦後70年を迎えた昨年、「中央大学と戦争」映像アーカイブ化プロジェクトをスタートさせた。戦争を経験した中央大学卒業生の方々にお話を伺い、その証言を基にドキュメンタリー番組を制作するというプロジェクトである。当然ではあるが、私は今までの20年間の人生において、戦争とは無縁に生きてきた。祖父母などからそういった話を聞くこともなかった。そんな私だったが、どうしても仲田さんからお話を伺いたいと思った。そして、戦争の現実を知り、自分なりに向き合いたいと思った。

 生々しい証言
 2015年8月24日。私は仲田さんと連絡を取り、インタビュー撮影のため、ご自宅を訪問した。緊張していた私を、仲田さんは大学の後輩として暖かく迎えて下さった。しかし、話が事件の事に及ぶにつれ、表情は固くなっていった。そして、絞り出すようにして当時の記憶を語って下さった。
 魚雷が命中し、仲田さんたちは海へと放り出された。辺り一面は、子供たちの「おかあさーん」「せんせーい」と呼ぶ声で包まれていた。しかし、その声は次第に聞こえなくなっていったという。一人で乗船していた仲田さんは、こう語る。
 「私はまだ8歳の小学生でしたけどね、自分は一人で来てよかったなぁって思いました。だって、兄や姉がいっしょだったら探さなければならないでしょ。だから、ああ、自分は一人で来て良かったなぁって思ったね…」
 目の前で何人もの人々が次々と沈んでいった。当時の友人は全員亡くなった。
 漂流二日目、仲田さんは運良く近くを通った漁船に助けられ、一命を取りとめる。しかし、多くの死を目の前で体験した心の傷から、仲田さんは助かった後も、しばらくは喜怒哀楽の感情を完全に失くしていたという。また、そういったトラウマや、「なんで自分は生き残ったんだろう」という負い目から、70年以上が経った今でも事件の体験を話す事は滅多にないとの事だった。
 私は率直に「では、なぜ今回の取材を受けて下さったのですか」と聞いた。すると仲田さんは、こう話した。
 「中央大学の後輩の頼みなら、断るわけにはいきませんよ」

 沖縄、そしてハワイに
 私は取材後に、実際に「対馬丸」の航跡をたどるために、沖縄から九州へと向かうフェリーに乗る事を決めた。2015年9月9日午後10時。対馬丸が沈没したとされるその時刻に、私は甲板に出た。真っ暗闇。このような夜の海に仲田さんを始めとする子供たちは放り出されたのだ。どれだけ怖かったか、どれだけ心細かったか。私は漆黒の海を見つめたまま、しばらくその場を動くことが出来なかった。
この体験を報告するために、私はもう一度仲田さんのお宅を訪ねた。仲田さんは、私の話を聞いてくださった後、「馬田さんに、これを持っていて欲しい」と大学時代に使っていたという一眼レフのカメラをくださった。私は、仲田さんから大学の後輩として認められたような気がして、本当に嬉しかった。そして「これからの人生、色々な世界を見ていって下さい」とも。
私はその後、「対馬丸」を沈没させた米軍の潜水艦・ボーフィン号が、ハワイに現存している事を知った。2016年3月、私は現地を訪ねた。学芸員のCharls R. Hinmanさんの協力で、ボーフィン号内部まで案内してもらった。ほぼ全ての設備が当時のままとなっており、実際に「対馬丸」へ魚雷を放った発射管や発射ボタンも残っていた。
 内部を案内して貰った後、Hinmanさんを通してアメリカの視点から見た対馬丸事件を知る事が出来た。ボーフィン号がアメリカ国内では「Revenger of Pearl harbor」として英雄視されていること。ボーフィン号の乗組員たちが対馬丸事件の真相を知ったのは事件から35年以上も後であること。乗組員たちは真相を知った時、とても大きなショックを受けたこと。しかし、Hinman さんは、続けた。「彼らは自らの行動を後悔する事はなかったのではないか。それが戦争というものだったから」と。
 今まで、私にとっての戦争とは、ただの教科書の中の知識であった。しかし、今回の一連の取材を通して、戦争の悲しみや苦しみを実感として受け止める事が少しばかり出来るようになったような気がする。また、日本側の視点だけでなくアメリカ側の視点を通す事によって、戦争の本質というものが以前よりも理解が深まったように思う。
 さらに、興味のあることや追求したいと思ったことには躊躇せず飛び込む事が大事だと学んだ。そうすることで今まで見えてこなかった世界が見えてきたからだ。仲田さんから頂いた言葉の通り、これからも「色々な世界を見続けていきたい」と思う。
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by tamatanweb | 2016-05-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「八王子空襲」の謎に迫った一年間   

総合政策学部政策科学科三年 平木場大器

 私は、番組「八王子空襲の謎」のディレクターを務めた。放送にこぎつけるまで、実に、一年間の制作期間を要した。謎の解明に、予想以上の労力と時間がかかったためだ。
そもそも、八王子空襲について調査しようと思ったきっかけは、2014年8月に放送された多摩探検隊「八王子空襲~5人の証言~」(10分)を上映会用に編集するために、何度も視聴したことだ。1945年8月2日未明に起きた同空襲は、米軍によって事前に予告されていた。それにもかかわらず、被害は、死者約450人、負傷者2000人以上に及んだ。なぜ、予告されていたのに、これだけの死傷者が出たのだろうか。疑問に思った私は、いろいろ書籍、報告書を調べたほか、関係者数人に聞き取り調査を行った。その結果、2つの事実にたどりついた。
1つ目は、ラジオ放送の錯覚だ。1945年8月1日午後8時55分に空襲警報が発令された。その後ラジオ放送で、「米軍は川崎や鶴見を攻撃している」との情報が入り、市民は、空襲警報が解除されたと思い込み、避難していた人は家に戻り、空襲に遭った。しかし調査によると、実際に空襲警報が解除されたのは、空襲終了後の翌8月2日午前2時46分だった。なぜ市民は、「空襲警報が解除された」「八王子は来ない」と思ったのか。八王子空襲を長年研究している東大和南高校の齋藤勉教諭は私のインタビューにこう答えた。
「当時、空襲警報が鳴っても、B29が飛来してこない事が何度もあり、市民は空襲警報に慣れてしまった。そうした状況に置かれていた市民は、ラジオ放送を聞いて『今日は来ない』と自主的判断で帰宅したのだと思う」
もう1つは、「防空法」という法律の存在だ。「防空法」とは、空襲時に「退去の禁止」や「消火の義務」を国民に課した法律だ。もし従わなければ、「非国民」という言い方で社会的制裁が待っていた。当時の人たちは「非国民」と呼ばれたら行く所がなく、死ぬしかなかったのだ。
しかし、防空法に関する取材を続ける中で、八王子空襲の17日前に、空襲警報が鳴り市外に避難しようとする市民とそれを阻止しようとする警防団員との小競り合いがあったと報じた新聞記事を見つけた。
私は空襲当日にも同じことがあったのではないのかと思い、目撃者探しに奔走した。しかし、中々見つからなかった。空襲当時にも小競り合いがあったかどうかは曖昧で、八王子空襲の研究者からも目撃証言を得られていなかったのだ。防空法に詳しい早稲田大学の水島朝穂教授からの回答も「八王子空襲と防空法についてはわからない。ましてや、逃げる市民と警防団の小競り合いという証言も聞いたことがない」というものだった。
そこで私は、八王子空襲を記録する会や郷土史家に連絡を取り、空襲被害者を探した。空襲被害者を見つけては、逃げる市民と警防団も小競り合いがあったかどうかを確認する作業を繰り返した。
探し始めて約2ヶ月後、目撃者である尾俣重利(おまた しげとし)さん(85歳、当時14歳)を見つけることができた。尾俣さんは、「空襲のことを思い出すのは辛く、今でも夢に出てくる」と取材を断られた。しかし私は、どうしても尾俣さんの証言をとりたい、尾俣さんしか証言できないと電話で訴えた。「これで私が証言するのは、最後になると思う」と取材を了承してくれた。
尾俣さんは、次のように説明した。
「空襲が始まってすぐに避難をし始めた。浅川橋を渡ろうとしたが、群衆で前に進むことができなかったその時、警防団員から『逃げるな!火を消せ!』と言われた。しかし、焼夷弾の火はバケツリレーで消せるようなものではなかった。警防団員は『殺すぞ!』と舞い上がっていたが、その後、住民の勢いに押され、その場からいなくなった。それで橋を渡り、助かった」
当時は、消火活動をしなかったら「非国民」と呼ばれる時代だったにもかかわらず、どうして避難をしたのか。私は尾俣さんに再度尋ねた。すると尾俣さんは、「いくら法律だからって死んでもいいってことじゃない。やっぱ生きるってのは一番前提ですからね」と語った。
 尾俣さんのように、警防団の制止を振り切り、助かった人はたくさんいた。しかしそれでも、死者約450人、負傷者は2000人以上という被害が出た。空襲被害の背景に、「敵前逃亡は市民でも許さない」という防空法の存在があったことを、今回の調査を通して、実感できたような気がした。
映像作品は、主に八王子空襲のことを取り上げた。このほかに、私は1年を通して、青森、東京、大阪、鹿児島の空襲被害者の方々からお話を聞いた。多くの人が、涙を流しながら、空襲当日のことを語ってくれた。その姿を見て、戦争においては、非戦闘員である一般市民も多くが犠牲になること。「非国民」と呼ばれることを恐れて、一般市民は防空法という非人道的な法律に従い、多くの死傷者を出したことがわかった。
私は、証言してくれた高齢者の言葉を受け継ぎ、平和で民主的な社会を築いていきたいと強く思った。
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by tamatanweb | 2016-03-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 動物の義肢装具士 ―日本初の挑戦―を制作して   

総合政策学部国際政策文化学科三年 鈴木里咲

 私は、日本で初めて動物専門の義肢装具士として、活躍されている島田旭緒さんに密着したドキュメンタリー番組を制作した。
 3月12日、初めて島田さんへの取材を行った。2007年に動物専門の義肢装具を製作する会社を立ち上げた島田さんは、現在様々なところで注目されている。動物病院から依頼を受けると、自ら採寸し、手作業で義肢装具を製作し、ちゃんと患部とあっているか自ら赴き確認する。島田さんが装具を製作している様子を見学しただけで、番組が出来上がった時の自分が想像できた。それぐらいやりがいのある企画になると思った。(写真1)
そこから、構成を考えていった。動物は、映像的に、人を惹きつける力があるという。事故や病気によって怪我をしたペットが、動物病院に運ばれる。そこで出来る限りの手術をされるが、後遺症が残ってしまう。これ以上なすすべのないペットが、島田さんの義肢装具をつけることで、歩けるようになる。これが、私の最初に考えた構成である。この最初の構成を基に撮影を行っていった。
朝、島田さんと合流し、一日の仕事を追っていく。この撮影を7回おこなった。そして、撮影を通じ6組の飼い主に会った。私は動物を飼っていないが、こんなにも様々な種類の動物がいて、それぞれの大きさも違い、そしていろんな症例があることに驚いた。島田さんはその一つ一つと向き合っていた。(写真2)
 撮影を続ける中で、60代くらいの夫婦に出会った。知的な、寡黙そうな男性が、大切そうに抱える腕の中には小さなチワワがいた。ココちゃんという名前のその犬は、高齢で、いままでも沢山の病気をしてきたのだという。前足はその後遺症で左だけ曲がっていた。「散歩が好きだったからね。前みたいにあるければね」
静かに男性は言った。次の日、島田さんは前足を固定し、歩くサポートをする装具を製作した。初めて装具を着ける日が来た。心配そうに見つめる夫婦の前で、ココちゃんは元気よく歩き始めた。飼い主さんに向かって元気よく歩くココちゃんを、腕を広げて待っていたその男性の目は、とてもうれしそうに微笑んでいた。そして、島田さんに「ありがとうございます」と丁寧にお礼を言っていた。(写真3)
 その後もいくつかの症例を撮影した。しかし、撮影を続けていくうちに、私は最初の構成に、違和感を覚えるようになっていた。番組のラストが決まらないのだ。歩けなかったペットが歩けるようになって、終わりではない気がしていた。ある日、島田さんは「時代の流れによって、ここまで需要が出てきたのだと思う」と言っていた。時代の流れとはなんだろう。なぜ、いま動物のための義肢装具が必要とされているのか。そこから、日本のペット事情について調べて行った。調べるなかでこのようなデータを見つけた。「子供の数より、ペット(犬・猫)の数のほうがはるかに多い」。私にとっては、それは驚きのデータだった。そして、ペットに向けたサービスが、多様化していることも分かった。ペットのサロン、幼稚園、厄払い…島田さんの言う時代の流れとは、このことだと思った。そして、構成にこういったデータを盛り込むことにした。また島田さんの仕事はただ淡々と描き、視聴者に問いかける構成にすることにした。
 私が所属するゼミの松野良一教授に、初めて番組を見ていただく日がやってきた。一通り番組を見た先生は、こうおっしゃった。「想像していた描き方とは違うけれど、淡々と描くことで、とても上手くまとまっている」。伝えたかったことが、初めて番組を通じ伝わった瞬間だった。
 先日、番組で取り上げさせて頂いたチワワのココちゃんの飼い主さんから、電話をいただいた。「この間はありがとう。実はココちゃんが亡くなったんです。」
丁度、私は就職活動にむけたセミナーに出席しているときだった。すぐには返事が出来なかった。「まだ、亡くなってすぐで、悲しくて、番組見れていないの。ごめんなさいね」
前回会ったときには、装具をつけ、元気に歩けるようになっていたと思うと、とてもつらかった。私はDVDを届ける約束をした。
 この番組で私は多くの事を学んだ。それは、大学生の映像制作にすぎないのかもしれない。けれど、その番組には必死に生きる動物の姿、ペットに愛情を注ぐ飼い主の姿、そして新たな動物医療の開拓をし続ける島田さんの姿がある。2年間続けてきたゼミでの番組制作。ようやく、観てもらいたい、知ってもらいたい、考えてもらいたと思える番組が制作できた気がする。
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by tamatanweb | 2016-02-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 異国の地で思いを日本に伝える仲介役として   

総合政策学部国際政策文化学科二年 和田ユリ花

 昨年は、戦後七十年という節目の年であった。私は、これを戦争について知るきっかけにと、当時中学生だった女学生が製造に従事していた、「風船爆弾」という兵器について明らかにすることにした。私と同じ女性として、過酷な労働環境の中で兵器を製造させられていた彼女たちや、その兵器について興味を持ったからである。
 風船爆弾とは、太平洋戦争末期、日本により秘密裡(ひみつり)に研究・開発された対米国の戦争兵器である。風船爆弾についての証拠資料は、戦後の隠ぺい工作によってほとんどが焼却処分され、現在ではほとんど残っていない。そこで風船爆弾について知るため、製造体験者である元女学生たちへの取材を行った。他言無用の兵器製造に従事していた彼女たちの心の葛藤、また「戦争の記憶が風化していく前に、戦争の愚かさを若い世代に伝えていかなければならない」という強い思いを、証言として記録することができた。さらに取材を進めるうちに、スミソニアン国立航空宇宙博物館代表学芸員であるトム・クローチさんという、世界でも数少ない風船爆弾の専門家の存在を知った。米国から見た風船爆弾について話を伺うため、昨年の夏、私はワシントンD.C.へ向かった。
 私は、中学から高校にかけての三年間を米国で過ごした経験があるため、ワシントンD.C.でインタビュアーを務めた。しかし、英語でのインタビューの経験などない上に、中学時代からの英語に対する苦手意識が未だに払拭できていなかった。ワシントン・ダレス空港に向かう飛行機の中で、日本語で作成した質問事項を英語に訳しながら、私は漠然とした不安に駆られていた。ワシントンD.C.到着からも、収録当日まで、インタビューのことで頭がいっぱいだった。
 収録当日は、文字通り、雲一つない快晴だった。私は、スティーブン・F.・ユードバー・ハジーセンターへと向かった。
到着してすぐ、広報員の方が館内を案内してくださり、トムさんとの待ち合わせ場所まで連れて行ってくださった。そこは、風船爆弾の現物が展示されているショーケースの前だった。
 トムさんと無事に対面した後、さっそく撮影が始まった。しかし、初めての海外撮影だったため、私も同行してくださった先輩もあわててしまい、なかなか上手に撮影を進められなかった。トムさんがアメリカ人として、風船爆弾をどのように考えているかなどという、踏み込んだ質問をしていけなかった。私の声が小さく、震えてしまったため、トムさんに何度も聞き返されてしまい、それが余計に自分を追い込むことになってしまった。
 しかし、トムさんの方から、私が今まで調べてきたときには全く出てこなかった、新しい事実を語ってくださった。初めて聞く話はとても興味深く、もっと知りたいと強く思った。そのとき私は、こんな貴重な機会に聞けることを全部聞いて帰らなければ、ここに来た意味がないと気づいた。それから私は、準備していた質問以外にも気になったことがあれば、全て伺った。トムさんのアメリカ人としての風船爆弾への意見なども聞くことができた。その時には声もはっきりと出るようになったのか、トムさんから聞き返されることも減った気がした。そして、トムさんは最後にこうおっしゃった。
 「私たちが第二次世界大戦終戦の記憶について考えることが、これからの世界平和を促進していくはずだよ」
 今回のような国外での取材では、国内での取材よりも限られた時間で、どれだけ貴重な話を伺えるかが重要だった。トムさんへの取材は、新たな証言の記録となった以外にも、取材する際の心構えを私が痛感するきっかけにもなった。言葉の壁がある中でも、同じ事柄への興味を共有することにより、心の距離は縮まり、たくさんの貴重な話を伺えることを知ることができた。この先、ほかにも取材を経験することになる。そのたびに、今回の経験のことを思い出すだろう。
 異国の地での思いを日本に持ち帰るという重要な役割を担ったことにより、私自身も一回り成長できた。この転機を、私は忘れることはない。
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by tamatanweb | 2016-02-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 元特攻志願兵の証言―中大OBの記憶を後世に   

経済学部国際経済学科三年 名越大耕

FLP松野良一ゼミは二〇〇七年から戦争を体験した中大OBにインタビューして、その証言を記録する作業を進めてきた。その成果は書籍『戦争を生きた先輩たち』(中大出版部、全二巻)として刊行されている。私は今回、先輩たちを再取材し、映像としてアーカイブ化するプロジェクト・リーダーを担当することになった。
活字だけでなく映像でも証言を残しておきたいと思ったのは、映像は情緒的なデータも保存可能であるからだ。
私がインタビューしたのは京都府舞鶴市に住む元特攻志願兵の神原崙(たかし)さん(九一)。私と神原さんは同じ中央大学の在学生と卒業生ということでしか共通点が無かった。このため、見ず知らずの私を受け入れ、本音を話してくださるのか非常に不安であった。
私は実際に舞鶴市の自宅を訪問した。取材を受け入れて頂けたことにを感謝すると、神原さんは「大学の後輩の為ならば求められたことは全力でする。その代り、君たちも全力で僕の言葉を聞いてくれ」と話された。それを聞いて、私はとても嬉しかった。
神原さんは、特攻隊に志願した理由について、こう語った。
「いづれ招集されて歩兵として南方戦線で突撃命令を受けて玉砕するだろう。であれば、特攻隊に志願して、自分の意志で敵艦に体当たりして潔く死にたいと思った」
厳しい訓練の後、本土決戦の特攻隊要員として、朝鮮半島の温井里飛行場で待機していた。特攻に使う飛行機は、一式千「隼」であった。
しかし、一九四五年八月一五日、終戦。神原さんたちは、軍刀を持って裏山に集合させられた。「皆、てっきり自決するものだと思っていた」という。そこで、隊長がこう語ったという。
「お前たちは元々、学生じゃないか。今から日本の国にとって大事な体や。連合国の捕虜になってでも恥を忍んで、日本を救う道はどうや」
神原さんは、その隊長の言葉を聞いて、生きていくことを決心したという。
取材中、一番印象的であったことがあった。神原さんは終戦までの出来事を淡々と話された後、終戦後の母親との再会の話になった。すると一転して嗚咽された。語られた記憶は、とても鮮明だった。「お袋にこうやって、顔を撫でてもらった。『兄ちゃんかな』と言いながら、お袋が撫でてくれた。もう忘れられないから…」
軍人から一人の子どもに戻られた瞬間だった。七〇年前の出来事をまるで昨日のことのように思い出し、号泣される神原さん。私はその姿を見ながら、特攻を志願しなければならなかった時代の一人の大学生の本当の思いを知ったような気がした。
も、実際に舞鶴市へ足を運び、神原さんから直接お話を伺うことができたからであろう。
取材の最後に、神原さんは、こう強調された。
「私と同じ経験をしてほしくない」
戦争を知らない私が、今後戦争を二度と起こさせないためにできることは、戦争経験者の話を聞き、よく理解し、それを後世に受け継いでいくことだと改めて実感した。今回、貴重な機会を得たことに深く感謝したい。
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by tamatanweb | 2016-01-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 一人の人間として向き合うということ   

総合政策学部国際政策文化学科二年 福田紗友里



 日本の古典音楽、雅楽。雅楽器の一つに「笙」という楽器がある。笙は、伝説の鳥「鳳凰」を模した雅楽器だ。発祥は中国で、その歴史は三千年にも及ぶ。日本には奈良時代に伝来し、以来その音色で日本人の心を魅了してきた。あるラジオ番組のHPで、私は西東京市に笙を作る職人がいることを知った。鈴木治夫さん(六七)。二十四歳から四十年間、笙を作り続けてきた人だ。笙職人は鈴木さんを含め、全国で数名しかいない。なぜ「笙」という雅楽器を、四十年もの間作り続けているのか。私は、鈴木さんが笙の何にそこまで惹きつけられているのか、ぜひ話を直接お伺いしたいと思った。そして、さっそく鈴木さんに連絡をとり、仕事場を訪ねた。

 鈴木さんの仕事場は八畳ほどのプレハブ小屋だった。彼は職人気質の寡黙な人だった。取材に慣れていない私は、なかなか心の内を引き出せなかった。だが、「なぜ笙を作り続けるのでしょうか?」という質問に対して、鈴木さんは力強い口調と眼差しでこう答えてくれた。

 「笙には三千年の歴史と日本人の思いが詰まっている。その思いを次の世代に残すために、この楽器を作り続けている」

 鈴木さんが笙を作り続けるのは、「笙を残したい」「雅楽や笙の音色を聞きたい」という、三千年もの間連綿と続いてきた日本人の「思い」を残すため。この「思い」こそが伝統であり、その「思い」を次の世代に受け継ぐことが、伝統を継承することなのだという。私は鈴木さんの言葉に強く胸を打たれた。

 大衆消費社会といわれる現在、伝統を身近に感じる機会はあまりない。鈴木さんの思いと技を映すことで、日本の大切な伝統文化の尊さを感じてもらえるような番組をつくりたいと考えるようになった。

だが、撮影交渉は一筋縄ではいかなかった。笙の製作工程を描き、鈴木さんのインタビューを通して、日本の伝統文化の尊さを伝える番組を作りたいことを伝えた。しかし、鈴木さんは「伝統が消えつつあることに警鐘を鳴らしたい気持ちは私にもある。だが、そのためには、直接、雅楽に関する情報番組をつくればよいではないか。なぜ私を取材したいのかわからない」とにべもなく断られてしまった。それでも粘る私に対し、鈴木さんは「わからない!」と大声で怒鳴った。

だが最後に、絶望している私に、鈴木さんはこう付け加えた。

「私は弟子にしか、こういう風に怒ったりしない」

私は激励されているように感じた。鈴木さんは一、二回話しただけの大学生に、弟子と同じように接してくれたのだ。

私はまず、鈴木さんと信頼関係を築くことから始めようと思った。鈴木さんは笙を製作する傍ら、笙と龍笛(雅楽器の一つ)教室の講師もしている。私は週に一、二回お稽古を見学しに行くようになった。初めの頃、教室に行っても鈴木さんは挨拶もしてくれなかった。ただ座っていることしかできなくても、ひたすら通い続けた。そうして一ヶ月ほど経ったある日「何もせずに見ているだけではもったいないから」と教室の生徒さんが、龍笛を貸してくれたのだ。この龍笛が、私と鈴木さんとの関係を大きく変えた。私は「メリーさんの羊」を必死に練習して、鈴木先生に披露したのだ。すると、その日の帰りの電車で、鈴木さんは今まで取材を拒否していた理由を私に語ってくれた。

「僕はマスコミとか、報道機関が嫌いなんだ。物事の本質を顧みず、うわべだけを報道しようという姿勢が嫌いだ。君もその中の一人だと思っていた」

鈴木さんは、今まで抱いていたメディアに対する不信を打ち明けてくれた。そして、私の目をまっすぐにみつめて、力強く、だが、温かい口調で、こう言ってくれた。

「僕を撮影してもいいよ」

私は、鈴木さんに、一人の人間として認められたように感じた。その言葉を頂いた二週間後に、撮影が始まった。

 そして、編集作業が終わり、番組が完成した。その番組のDVDを渡しに、鈴木先生の仕事場を再び訪れた。初めて鈴木さんを訪ねたときから、十か月あまりが経っていた。だが、仕事場の漆の匂いも、床に落ちている竹の削りかすも、以前と何も変わっていない。私はDVDを渡して、鈴木さんにお礼を言った。鈴木さんはその間も笙に漆を塗り続ける手を止めることはない。鈴木さんが笙を作っている様子を見るのは久々だったため、懐かしく思いながらしばらくその様子を見ていた。すると鈴木さんは、ふと漆を塗る手を止めて、こちらに微笑んだ。

 「よく頑張ったね」

 鈴木さんの微笑んだ顔が、涙で滲んで見えなくなった。

 教室に通っていた時は、「追い返されるのではないか」「生徒さんの迷惑ではないか」と正直怖くて仕方がなかった。番組にできないのではないかと不安になり、帰りの電車で涙した日もあった。しかし、鈴木さんに怒鳴られたあの日も、電車で鈴木さんの本音を聞いた日も、私の思いはただ一つだった。一人の人間として、全力で鈴木さんと向き合いたい、と。

 鈴木さんが今回、撮影を許可してくれたのは、一人の人間として認めてくれたからだと思う。これから、私はたくさんの人々と出会うだろう。うまく関係が築けず、思いがなかなか伝わらないことも多いかもしれない。そんなときは鈴木さんの「頑張ったね」の一言と笑顔を思い返したい。真摯に向き合えば、人は必ず答えてくれる。鈴木さんの一瞬の笑顔は、私の一生の自信になった。
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by tamatanweb | 2014-03-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ある獣医とのかけがえのない出会い   

法学部政治学科3年 岡田紗由香



みなさんは「ノネコ引っ越し作戦」をご存知だろうか。「ノネコ引っ越し作戦」とは、小笠原諸島のノネコを本土に搬送し、飼い猫にするという活動である。

小笠原は今まで一度も大陸と繋がったことがないため、珍しい生物が数多く生息している。小笠原の独特な生態系は世界的に認められ、二◯一一年に世界自然遺産に登録された。しかし、小笠原では希少種の生物が絶滅の危機に追いやられていた。その原因の一つが、外来種であるノネコの存在である。ノネコは、希少種の生物を捕食したりその繁殖地を襲ったりして、希少種を絶滅寸前まで追い込んでいたのだ。小笠原では希少種を保護するためにノネコの安楽死が検討されていたが、新ゆりがおか動物病院の院長である小松泰史先生(五六)が希少種の命もノネコの命も両方守る「ノネコ引っ越し作戦」を提案し、小笠原の方々と協力しながら活動に取り組んでいる。私は、この引っ越し作戦を追ったドキュメンタリー番組「ノネコの引っ越し作戦~海を越えて命を守る~」を制作し、第一一三回多摩探検隊(二〇一三年九月)として放送した。

私はこの番組制作にカメラマンとして参加していたが、一通り撮影を終えた後、急遽ディレクターとして編集作業を務めることになった。取り上げるテーマが難しいため、ディレクターという重役を私が務められるか不安だったが、取材段階からプロジェクトに携わっていたことと、過去にも多摩探検隊を制作した経験があったので、なんとかなるだろうと思っていた。しかし、いざ編集に入ってみると一筋縄ではいかなかった。膨大な量のテープから使えそうな映像の選別に始まり、度重なる番組構成の立て直しやナレーション原稿の練り直し、資料・データ集め…。時間が早々に過ぎていく一方で、やることばかりが溜まっていった。私は、思っていたより大変な編集に嫌気がさし、モチベーションが下がっていった。次第に、「ディレクターなんか引き受けなければ良かった」とまで思うようになっていた。

そんな時、小松先生と直接お会いする機会があった。小松先生は「用事のついでに」と言って、わざわざ資料を大学まで届けてくださったのだ。それだけでもありがたい気持ちでいっぱいだったのに、その次の日に「昨日の資料は役に立ちそうですか。夜遅くまで大変ですね。また何か分からないことがありましたら、ご連絡ください」とメールが送られてきていた。小松先生のその言葉が、私の心にじんわり染み渡った。「なんてことを考えていたんだろう」。私は、ディレクターを引き受けたことを後悔していた自分を恥ずかしく思った。「小松先生を始め、多くの方の協力があるからこそ、この番組は成り立っている。何としても最後までやり遂げなくてはいけない」。そんな思いが、自然と湧いてきた。

約三ヶ月の編集期間を経て、終に一〇分のドキュメンタリーを完成させ、無事に放送することができた。私は真っ先に、小松先生に番組完成の報告と番組制作にご協力いただいたお礼の電話を掛けた。すると、「長い間お疲れ様でした。私も家で放送を見てみますね。」と嬉しそうに話してくれた。

その数日後、私の携帯電話に小松先生から電話が掛かってきた。それは番組を見たという報告の電話だった。「番組見ましたよ。よくまとまっていて、とてもいい出来でした。ありがとうございました」。小松先生がわざわざ連絡をくださったことがとても嬉しかった。そして、ふとあの日のやり取りを思い出した。小松先生のあのメールがなければ、きっと番組を完成させることはできなかっただろう。私は、次第に目頭がじんわり熱くなるのを感じた。

私は、この番組のディレクターを引き受けて本当に良かった。途中で編集を投げ出したくなることも何度もあった。しかし、小松先生との出会いは大学時代のかけがえのない思い出となった。きっとこの先、この出会いを忘れることはないだろう。

*「ノネコの引っ越し作戦~海を超えて命を守る~」は二〇一三年「地方の時代」映像祭で奨励賞を受賞した。
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by tamatanweb | 2014-02-01 00:00 | 制作日誌