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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「絆」を追い続けた七ヶ月間 ―「被災地との絆~日の出町から田野畑村へ~」を制作して―   

法学部政治学科三年 末包絵万



二〇一一年三月一一日、日本のみならず、世界中に衝撃を与える未曾有の大災害が起こった。東日本大震災だ。一万五千人を超える人が大津波に飲み込まれ亡くなり、今でも多数の人々が行方不明だ。私はこの日、大学近くの自宅にいた。大きな揺れが、五歳の時の記憶を呼び起こした。私は、大阪で阪神淡路大震災を経験している。その日から自分にできることはないのかと、考えるようになった。

私は早速、多摩地区のボランティア活動を調べ始めた。そして偶然、新聞の地方版の小さな記事で、「田野畑村を応援する会」のことを知った。「田野畑村を応援する会」は、東京都日の出町にある平井中学校の生徒と教員OB・OGを中心に結成されたものだ。平井中は、一九八七年から一九九四年までの八年間、修学旅行で岩手県田野畑村を訪れていた。その修学旅行の内容は、生徒たちが漁業や酪農などを営む家庭に宿泊し、労働体験を行うというユニークなものだった。村の人と寝食を共にし、仕事を手伝うことで、生徒たちは彼らと交流を深めたのだ。第一次産業を体験し「生活の原点」を学んだ。

そして、田野畑村が被災したという話を聞いた平井中元教員の鈴木斉(ひとし)さん(五八)が、二〇一一年四月「田野畑村を応援する会」を結成。義援金を集めるなど、田野畑村を支援する活動を開始したのだった。

多摩地区の人々と東北の小さな村である田野畑村に、そういう深い繋がりがあったことに私は感動した。田野畑村と日の出町の間の絆を描きたい。きっと、NHKも民放東京キー局も大きく取り上げることのない小さな交流をドキュメンタリーとして残しておきたい。そして、それが、私にできることだと思った。早速、五月末から、私は「応援する会」の取材を始めた。

八月には実際に、鈴木さんと一緒に被災地・田野畑村を訪問した。初めて見る被災地の様子は、想像を絶するものだった。家や駅など形あるものがない。まるで、元から何も無かったかのように思えるほど、ただ広く、静かだった。震災からすでに五カ月が経過しているのにもかかわらず...。私は、現地で復興の難しさを実感した。

それから、修学旅行で中学生たちがお世話になった人々に会いに行き、当時の様子や震災後の話を伺ったりして、慌しい撮影スケジュールを終えた。東京に戻った後、十一月に日の出町で行われた「応援する会」による田野畑村特産品の販売活動などを取材・撮影した。そして、それらの素材を合わせ、一本のドキュメンタリーにまとめ上げる編集作業に取りかかった。

しかし突然、行き詰まった。あの被災地の惨状が、頭に焼き付いて離れない。あの様子を思い浮かべると、「絆」などという言葉は、綺麗事のように感じられた。そんなことよりも、被災地の現状を伝える必要があるのではないか...―。私はそんなことを思い始めていた。

そして、その答えが見つからないまま、映像の編集を続け、ゼミで番組の試写を行った。上映後、ゼミ生や先生から「被災地の映像が多く、何を伝えたいのか分からない」という指摘を受けた。自分の心の中を、見透かされているかのようだった。

確かに私は、被災地の惨状に心を奪われ、「田野畑村を応援する会」の人々の視点に立っていなかった。なぜ応援したいと思ったのか、かつて、二つの地区にはどういう絆が結ばれていたのか、そして、それは今どういう形で繋がっているのか。これこそ、私が描くべきことであった。

迷いがふっきれた私は、新たな要素を入れ、再構成し直した。二〇年前の修学旅行を通じて、応援する会の人々が、田野畑村の人々と交流したこと。当時の交流が、平井中の卒業生や教員の心に、今でも深く刻み込まれているということ。そのことが、応援する会の活動に、形として現れているということ。こうして、応援する会と田野畑村の人々との「絆」を軸に、一つの物語として描くよう努めた。そして、二〇一二年一月、ようやく番組を完成させることが出来た。

被災地は、今も復興の途中だ。「絆」を伝えようなんて、やはり綺麗事に過ぎず、馬鹿げているかもしれない。しかし私が、この七ヶ月間の取材で見てきたもの。それは、やはり人々の絆だった。応援する会と田野畑村、この二つの間には、二〇年の時間と約六〇〇キロという距離がある。しかしその時空を越えて、人々は助け合い、繋がっていくことが出来る。「絆」は、何にも代えがたい人間だけが持つ強さなのだ。

震災直後から、テレビや新聞など多くのメディアが、「絆」に着目し、連日数多くの物語が世に出て行った。私も「多摩」という地域を大切にしてきたことで、埋もれていたひとつのエピソードに光を当て、未来にわたって残る映像記録を作ることができた。そしてこのドキュメンタリーが、応援する会の人々にとっても、田野畑村の人々にとっても、復興への思いを繋ぐ希望の光になることを、私は心から願っている。
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by tamatanweb | 2012-07-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 『日本最古の甘柿』の歴史の裏に... ―禅寺丸柿を守る農家の思い―   

人文社会学科フランス語文学文化専攻三年 梶彩夏



みなさんは、禅寺丸柿という柿をご存じだろうか。禅寺丸柿とは、日本最古の甘柿である。川崎市麻生区の王禅寺で、今からおよそ八〇〇年前に発見され、同寺の住職により、町田市にも伝えられた。私は、地域誌を読んでいる時にこの柿のことを知った。「日本最古」の甘柿が、自分の身近にあることに興味を持った。そして、私はこの柿の歴史を調べ始めた。

一二一四年、王禅寺を訪れた使者が禅寺丸柿を発見した。使者がその柿を採って食べてみると、甘くて美味しい甘柿だった。これまで日本にあった柿は全て渋柿であり、甘柿の出現は歴史的なものだった。これが、禅寺丸柿が日本最古の甘柿と言われる所以だ。そして一三七〇年、王禅寺の住職である等海上人により、近隣の村へと伝わり、普及していったという。

詳しい禅寺丸柿の歴史が分かった私は、日本最古の甘柿を実際に食べてみたいと思った。そう思った私は、JA町田を通して紹介して頂いた佐藤允(みつ)則(のり)さん(七九)に連絡を取り、会いに行った。佐藤家は元禄時代から代々、町田市で農家を営んでいるそうだ。佐藤さんの自宅の庭には、禅寺丸柿の木がたくさん植えられていた。どれも樹齢百年は超えているという。柿の実も、スーパーで売られているのと違って小ぶりであり丸みを帯びていた。

「昔はこの地域でも多くの家の庭に禅寺丸柿が植わっていたんです。私が子どもの頃は盛んに栽培されていて、たくさん出荷されていたんだけどね...」

佐藤さんは寂しそうな表情でそう語った。

禅寺丸柿は、小ぶりで種が多く果肉部分が少ない。だけど甘みが強くおいしいので、一時は盛んに栽培されていた。しかし昭和四〇年代後半から品種改良された、次郎柿などの大きくて甘い柿の出現により、禅寺丸柿はだんだんと市場から姿を消していったという。また戦後、区画整理や都市化の影響により、各家の庭に植わっていた柿の木さえも伐り倒されてしまったそうだ。その話を聞き、私は歴史ある甘柿が、減少してきているという現状を残念に思い、広く一般の方々にも禅寺丸柿の存在を知ってもらいたいと思うようになった。こうして、私は禅寺丸柿に関する番組制作を始めた。

佐藤さんの庭で、リポーターが実際に収穫にチャレンジし、その場で柿を豪快に丸かじる。そして柿のおいしさや他の柿との味の違いをリポートした。また、禅寺丸柿を後世に残すために、その甘さが生かせるワインの製造が山梨県で行われているということも知り、そのワイン工場にも実際に伺った。そして、製造工程を番組内で紹介すると同時に、キャスターに柿ワインを試飲してもらう構成を考えた。

撮影は、順調に進んでいた。しかし、私にはどうしても気になることがあった。多くの農家の方は、柿の木を切り倒し、他の農作物を植え、その土地をもっと効率よく使っている。収益を考えたら、決してプラスにはならない。そんな中で、なぜ佐藤さんは、そこまでして禅寺丸柿を育て続けているのだろうか。

インタビューの撮影をする直前、私は佐藤さんに尋ねてみた。

「佐藤さんが長年、禅寺丸柿を残している理由はなんですか」。すると佐藤さんは、「難しい質問だね...」と、はにかみながら、こう答えてくれた。
「禅寺丸柿の木を見ていると、幼い頃の思い出が浮かぶんです。当時は、祖父母と一緒に禅寺丸柿を出荷する準備をしたり、家族皆で家の縁側に集まって、柿を食べたりしました。禅寺丸柿そのものが、唯一今も残っている家族との思い出なんですね。だから、これからも切り倒さずに残していきたいんです」

昔は、どこの地域にも田畑があり、秋になると庭先に植えてある柿の実を食べるということが、日常の風景だった。そして佐藤さんにとっても、禅寺丸柿は、心のふるさとなのだ。佐藤さんは禅寺丸柿を残し続けることで、昔の風景を少しでも守ろうとしているのだろう。私は、彼のこの思いに触れ、番組の最後のインタビューに入れることを決めた。

こうして、二〇一二年二月、番組は完成した。最初は「日本最古」という言葉にひかれて、調べ始めた禅寺丸柿。しかし、取材を進めると「日本最古」という長い歴史の裏には、お金には代えられない農家の方々の家族の思い出がたくさん詰まっていた。今回の番組制作を通し、私はその時にしか感じられない思いや目に見えないものを形として残すことの大切さを佐藤さんから教わったような気がした。
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by tamatanweb | 2012-07-01 00:00 | 制作日誌