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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 信念があればこそ ―廃材バイオリン製作家の人生を追って学んだこと ―   

文学部人文社会学科英語文学文化専攻三年 小林奈緒



「東京都町田市に、廃材からバイオリンを作っている男性がいる」-新聞の地方版に、こんな記事が載っていた。これが、私と塚本義房さん(七九)の出会いだった。廃材のバイオリンなんて、想像がつかない。一体どんな音が出るんだろう、なぜ廃材を使うのだろう...。私は、記事を読み終えた瞬間から、この「廃材バイオリン」のことが頭から離れなくなった。居てもたってもいられず、私はすぐに塚本さんに連絡をとることにした。いきなりで不躾(ぶしつけ)だと思ったが、快く承諾してくださり、自宅でお話を伺うことになった。

初めてお会いする塚本さんは、穏やかで温かな空気を身にまとっていた。私が予想していた通りの方だった。早速、廃材バイオリンを見せてもらった。見た目も音色も、通常のバイオリンと何の遜色(そんしょく)も無い。塚本さんは、緊張している私を気遣うように、色んなお話をしてくださった。

塚本さんとバイオリンとの出会いは、中学生の時。ラジオから偶然聞こえてきたバイオリン奏者の演奏に胸を打たれたことが、きっかけだったという。その後、製粉関係の会社に入社した塚本さんは、二か月分の給料をはたき、念願のバイオリンを手に入れた。当時はまだ扱いに不慣れで、バイオリンを壊してしまうこともしばしば。修理をしてもらうために、近所のバイオリン製作家の元へ通ったそうだ。修理の様子を見て、いつしか「自分でもバイオリンを作ってみたい」と思うようになった。そして四七歳の時、家にあったまな板を使って、初めてバイオリンを製作した。自分で本を読みながら、手探りの製作だった。それから古い農家の解体現場などから、廃材をもらうなどして、現在までに三八本ほどのバイオリンを作り上げた。定年退職した後は、管弦楽団「さがみはらフィルハーモニー管弦楽団」にも入団。現在は自分の製作したバイオリンで、演奏活動を行っている。

そこまで伺った後、私は一番疑問に思っていたことを思い切って聞いてみた。「なぜ廃材にこだわるのですか?」。すると、塚本さんはにっこり笑って、「廃材の方が、値打ちがあると思うんだよ」と語った。私が怪訝な顔をしていると、

「廃材は、人間と一緒に生活してきたもの。魂がこもっていると思う。捨てられたり、燃やされたりしたらおしまいだけど、もう一度音になって甦ることができたら、木も喜んでいると思うんだよね」

私はその瞬間、心を打たれた。捨てられる木材にも、温かなまなざしを注ぐことができる塚本さんの情感の深さに...。その時から、塚本さんの部屋にぶら下げられている素朴なバイオリンたちが、私には何にも代えられないような名器に見えた。

塚本さんのバイオリン製作に対する思いを、たくさんの人に知ってもらいたい・・・。私は迷わず、彼の技と人生を取材した番組を制作することに決めた。

早速、撮影を始めた。私たちは、塚本さんが一本のバイオリンを作り上げるまでを追うことにした。廃材からボディーとなる部分の板を切り出したり、ネックの先端のうずまきを彫り出したり、出来上がったバイオリンに何度もニス塗りを重ねたり...。どの工程も、多くの時間と労力を要するものだった。塚本さんは何度かバイオリン製作を辞めようと思ったこともあったという。作り方の工夫を凝らそうと、試行錯誤を繰り返したが、上手く行かなかったためだ。

挫折感を味わっていた彼を蘇らせたのは、自身の個展の感想ノートに書かれた、多くの人からの励ましの声だった。自分の作品を見て、感動してくれる人がいる。そして、喜んでくれる人がいる。ノートに書きこまれた言葉によって、彼はもう一度立ち上がり、今日まで頑張って来れたのだそうだ。

私たちは、一〇回近く塚本さんの自宅へ足を運び、撮影を続けた。その中で、バイオリン製作の難しさを、身にしみて感じたのだった。

現在、塚本さんは最高齢の団員として、「さがみはらフィルハーモニー管弦楽団」に所属している。二〇一二年六月二日、定期演奏会があるというので、それも取材させていただいた。演奏会本番、私は塚本さんのバイオリンの音に集中した。演奏は素晴らしいものだった。廃材だった木が、バイオリンとなり、そして、完成した音色となって、会場中に響き渡っていった。「木も喜んでいる」。塚本さんの言葉を思い返し、私は涙がこぼれそうになった。演奏が終わると、大きな拍手が会場を包んだ。指揮者が塚本さんのところに行き、しっかり握手を交わす。その時の塚本さんは、私の目にはとても誇らしげに映った。彼の長年に渡るバイオリンへの思い、廃材への思いが、会場のすべての人に届いているような気さえした。

私は塚本さんと出会い、本当に多くのことを教えてもらった。どんな困難があっても、信念があれば何事も成し遂げられること。そして、数々の出会いが、彼を支えてきたこと。だからこそ、挫折も乗り越えて今、彼は充実した時を迎えているのだ。私もこれから先、幾度となく壁にぶつかることだろう。時には、くじけそうになるかもしれない。でもそんな時は塚本さんの姿を思い浮かべ、頑張れるような気がする。一つのことに信念を持って続ければ、必ず実を結ぶ。そう信じることができるようになったからだ。塚本さんと出会えて本当に良かったと思う。心から感謝している。
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by tamatanweb | 2012-11-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 10年という軌跡 ―「若狭たかはま子ども放送局」に参加して―   

法学部法律学科二年 田端夕夏

私が所属するFLP松野良一ゼミでは、二〇〇三年から毎年、「若狭たかはま子ども放送局」というプロジェクトを行っている。福井県高浜町の小学生たちと私たち大学生が一緒になって、高浜町の魅力を企画、取材、撮影、編集をして一本のテレビ番組を制作しているのだ。私は今回、初めて子ども放送局の活動に参加し、ディレクターを務めることになった。

今年も例年通り、小学生四人に「若狭たかはま漁火想」のリポートやインタビューをしてもらうことになった。

「若狭たかはま漁火想」とは、高浜町観光協会が音頭を取り、町ぐるみで住民が力を合わせて作りあげているお祭りである 。日中は、砂浜にご当地フードの屋台が並ぶ。夜は、砂浜一面に敷き詰められた約六〇〇〇個のキャンドルが灯される。また、迫力満点の水中花火、櫓ドラゴンなども有名である。このお祭りも「若狭たかはま子ども放送局」と同じく、今年で一〇周年を迎えた。現在では、2~3万人が関西や名古屋から駆けつけるほどのお祭りに成長している。「この記念すべき年に、何か特別なことができないだろうか」と、私は考えた。そして今回は、新たなブロックを設けること企画した。それは、①「参加している人たちに、漁火想一〇年目の想いを一枚のTシャツに書いてもらう」、②「以前リポーターを務めた子どもたちに、今回リポーターを務める子どもたちがインタビューする」の二つである。一〇周年の節目として記念になるようにと、何度もクルーと話し合いを重ね、考え出したものだ。

初めてのディレクターにも関わらず、新しい内容を織り込むなんて無謀かもしれない...。そう思いつつも、そんな不安を少しでも解消するため、何度も会議を重ねた。そして二〇一二年七月二七日、私たちは新幹線と鈍行列車を乗り継ぎ、福井県高浜町へ向かった。 初めて見る高浜町の白砂青松の風景、初めて会う子どもたち。撮影の事前打ち合わせも撮影も、一日で終わらさなければならない。失敗は、許されない。しかしリポーターの子どもたちの中には、去年も「子ども放送局」に参加した経験者もいた。よく段取りがわかっていたため、初めての子をしっかりサポートしてくれたのだ。新人の私には、彼らがとても頼もしく映った。

しかし、ディレクター初挑戦の私にとって、撮影現場は初めてのことだらけであった。綿密に準備して行ったにも関わらず、なかなかスケジュール通りに、撮影が進まない。その上、「Tシャツにメッセージを書いてもらう」という新しい企画が、思ったように進んでいなかったのだ。撮影と同時進行で進めるはずだったのだが、撮影の進行の遅れと共に、遅れが出始めたのだ。このTシャツは、最後に記念として、観光協会にプレゼントすることになっていた。このままでは、中途半端なものしか渡せない、どうしよう...。ディレクターの私が、まとめなければならないのに。どんどん焦りが募る中、時間だけが過ぎていった。

「何をしているんだろう...」。私は悔しさで、カンペを書く手が震え、思わず涙が出そうになった。その時、三年前にリポーターを務めた子どもたちが、どこで聞きつけたのかやってきてくれた。そして、「私たちがメッセージを集めてくるよ」と、言ってくれたのだ。「ごめんね。お願いします」。私が申し訳なさそうに、頭を下げた。子どもたちはTシャツを持って、あっという間に、人ごみの中へ消えていった。そして数十分後、早くも子どもたちが帰って来た。Tシャツには、隙間がないほどたくさんのメッセージが書き込まれていた。感動と安堵で、私は何も言えなくなった。ただ、涙が出た。「ありがとう...」というのが精いっぱいだった。

私がゼミの先輩に頼み込みデザインしてもらい、手作りで作成したTシャツ。それが、高浜町の人々のメッセージでいっぱいになった。それは、今まで一〇年間、ここ高浜町の子どもたちが、「子ども放送局」を通じて培ってきたネットワークの力そのものであった。一〇年間、私たちの先輩が、毎年高浜町に来て、子どもたちと一緒に試行錯誤しながら作り上げてきた「若狭たかはま子ども放送局」。最初は、私たちが考えられないような苦労もあったことだろう。しかしこうして、新人の私が来てもスムーズに撮影が進むほど、大きな輪に育ったということなのだ。そしてなにより、代々の子ども放送局のリポーターたちが、この「若狭たかはま子ども放送局」を大切に思ってくれている。それがなにより嬉しかった。

寄せ書きの一つに、「(漁火想は町の)宝物」という言葉があった。私にとっても、今回の活動は大切な「宝物」になった。「若狭たかはま子ども放送局」も、私たちの活動も、毎年毎年バトンを渡すように、心を繋いでいくことで大きく育っていく。そして、その一端に関われたことを、とても誇りに思う。私と一緒で今年新人だったリポーターの子どもたちは、来年はリーダーとして引っ張っていってくれるだろう。私も今年はバトンを受け取るだけで精いっぱいだった。しかし来年は、ちゃんとバトンを渡せるようになろう。私はこの思いを胸に刻み込み、帰りの鈍行列車に乗りこんだ。
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by tamatanweb | 2012-11-01 00:00 | 高浜子ども放送局