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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 砂川の地で、学んだこと   

法学部法律学科四年 日野愛音



私が所属するFLP松野良一ゼミでは、毎年八月に、四年生が多摩探検隊を制作することになっている。テーマは、「戦争と平和」。今年は、「砂川闘争」をテーマにしたドキュメンタリーを制作した。私は制作補、番組ナレーターとして、制作に参加した。

私がゼミ生と共に砂川闘争について調べ始めたのは、二〇一二年六月のこと。闘争当時の様子を知るため、私たちは闘争参加者を探した。すると、かつて闘争に参加した栗原正男さん(七六)という方が、現在も砂川町で暮らしているという情報を手に入れた。彼に取材をするため、私たちは砂川町に向かった。

取材日当日。栗原さんの自宅を目指して、私はゼミ生と共にバスに揺られていた。その車内で、私は砂川闘争のある映像を思い出していた。基地拡張のため土地を測量しようとする測量隊や警官隊と、それに反対する住民たちが、激しく衝突している映像だ。砂川闘争を記録した映画に、収められていたものだった。

私には、その映像を見てから気になっていることがあった。映像を見るまで、土地と自分たちの生活を守るために住民の方は測量隊に抵抗したのだと、私は思っていた。しかし映像に映し出されていた闘争参加者は、それだけではない、もっと大きな何かを守ろうとしているように私には見えた。それは、私の勘違いなのか。闘争参加者は、どのような思いで測量隊に抵抗していたのか。私は、それを栗原さんに確かめたいと思っていた。

栗原さんのご自宅は、バス停から少し歩いたところにあった。栗原さんは「どうぞ」と私たちを自宅に招き入れてくれた。そしてご自身が体感した砂川闘争を、私たちに話してくれた。怒号。地響き。人々の表情。熱気――。警官隊と住民との衝突はまるで戦争状態だったと、栗原さんは言った。そのお話を聞いて、私は闘争の激しさを痛感した。

その後、栗原さんは家の裏にある畑を見せてくれた。衝突が起きた時には、多くの人が踏み込み、ぐちゃぐちゃになったという。闘争後また作り直したという畑は、綺麗に手入れされていた。そこで、私はずっと気になっていたことを栗原さんに質問した。闘争参加者がどのような思いで測量隊に抵抗していたのか、ということだ。

「生活を守るということはもちろんだけど、砂川町はもともと地が悪い場所で、先祖が苦労して開墾した土地なんだ。そんな先祖や自分が一生懸命育ててきた土地を手渡すことなんて、出来ないよ。『反対派』として最後まで抵抗し続けた人たちは、みんなそう思っていたよ」

農家の人は、土地と共に生きている。栗原さんは、そう話してくれた。私は、はっとした。農家の方々にとって、土地は、先祖代々の家族の歴史であり、生きてきた証なのだ、と思った。闘争の映像を見てから気になっていた、闘争参加者が守ろうとしていた「何か」は、そういった先祖代々積み重ねてきた歴史、だったのかもしれない。

砂川闘争の根本には、「土地と人との強い結びつき」がある。栗原さんの話を聞いて、私はそう感じた。そしてその深い繋がりは、時間や場所を問わない普遍的なものだと思った。今から五七年前に起きた砂川闘争という大規模な住民運動には、現代にも未来にも通じるものがあると私は感じた。砂川闘争を知る人が少なくなっているという今、闘争の証言を集め、その事実を少しでも多くの人に伝えたいと思った。

それから番組の撮影が始まった。私たちは、栗原さん以外にも学生として闘争に参加していた方や、反対運動を率いていた方のお孫さんなどにインタビューをした。取材をすればするほど、砂川闘争に参加した農家の方の「農家としての生活と、先祖代々続く歴史を守りたい」という、一途な思いが浮かび上がった。

撮影を終えた後は、ナレーション撮りを行った。番組の雰囲気を壊さないよう、声を低めに出す工夫をし、納得がいくまで何度も撮り直しを行った。そして七月末に、番組は完成。二〇一二年八月、『砂川の記憶―57年目の証言―』として、多摩地域と長崎県、福岡県のケーブルテレビ計八局で放送された。

番組制作に奮闘した二カ月を振り返って、砂川闘争に関する貴重な証言を集め、発信できたことを私はとても嬉しく思う。来年の四月から、私はマスコミ業界で働く。これから先、見知らぬ土地に足を運ぶこともきっと多くなるだろう。しかしどんな場所に行っても、そこで暮らす人々の土地への思いに敬意を払い、興味を持って接していきたいと思う。砂川町と、そこで出会った人々を時折思い出しながら...。
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by tamatanweb | 2012-12-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 砂川闘争から五七年、今伝える意義   

法学部政治学科四年 村松拓



「砂川闘争」という言葉を、聞いたことがあるだろうか。砂川闘争とは、ここ多摩地域で一九五五年、米軍立川基地の拡張をめぐって起こった大規模な住民運動だ。闘争の末、基地の拡張計画は中止となり、一九七七年には米軍立川基地が日本側に全面返還された。基地の跡地は現在、陸上自衛隊立川駐屯地や国営昭和記念公園となっている。

私が所属するFLP松野ゼミでは、四年生が卒業制作として「多摩探検隊」の八月放送分を制作することになっている。テーマは毎年、多摩の戦跡や戦争の記憶に関するものである。今年は私が、そのディレクターを務めることになった。そして今回は「砂川闘争」をテーマに番組を制作することにした。

このテーマを取り上げるきっかけになったのは、オスプレイの配備をめぐる米軍基地問題の報道だった。テーマを探していた二〇一二年の初夏は、まだ日本国内にオスプレイが配備される前だった。配備反対を訴える人々の表情がテレビに盛んに映し出された。それを見て、多摩地域でもかつて米軍基地闘争があったことをふと思い出し、今改めて取材したいと思ったのだ。

しかし、砂川闘争について調べ始めてすぐ、壁にぶつかった。闘争から五七年の月日が経ち、当時を知る方がほとんどいなくなってしまったのだ。証言をしてくださる方がいなければ、番組は作れない。さらに、闘争に関する記録が、既に数多く残されていた。「そもそも、私たちが今、五七年前の砂川闘争を伝える意味とは一体何だろう」。先が見えず、私はすっかり意気消沈してしまった。

それでも、七月下旬までに番組を作りケーブルテレビに納品しなければならない。まずは証言者を見つけるべく、私はゼミ生と無我夢中で、昔の新聞記事を探し出しては、記載されている電話番号に一つずつ問い合わせていった。

その結果、ようやく一人の男性を見つけ出すことに成功した。立川市砂川町に住む栗原正男さん(七六)という方だ。彼は砂川生まれの砂川育ち。十九歳の時、自宅が立川基地の拡張予定地に指定され、母親と闘争に参加したという。そして、今でも同じ場所で畑仕事をしながら暮らしているそうだ。

梅雨曇りの続く六月下旬、私は栗原さんのもとを訪れた。彼は「今どき、学生が自ら話を聞きに来るなんて珍しいね」と言って私たちを歓迎し、当時の思い出を一つずつ話してくださった。砂川一帯の土地は先祖が苦労して開墾したこと、闘争のもみ合いで畑がぐちゃぐちゃになってしまったこと、警官隊が自宅を目掛けて押し寄せてきたこと、拡張計画が中止になって喜んだこと――。どの話も、半世紀以上も前の記憶とは思えないほど鮮明で、生々しかった。

そうした中、話題は住民同士の対立のことに移った。当時、拡張予定地内の土地の接収は、米軍ではなく日本の「調達庁」(後の防衛施設庁)という専門の官庁が行なっていた。調達庁の職員は、住民に土地を売ってもらうべく、「今なら土地が高値で売れる」などと言って何度も説得を試みたそうだ。その結果、最初は団結していた住民たちが、栗原さんら闘争を続ける「反対派」と、条件によっては土地を売り渡す「条件派」に分かれてしまったという。

「今まで仲良くやってきた近所の人たちも条件派になって、急に口も聞かなくなっちゃってね。今はもう立ち退いてどこにいるかわからない。闘争がなかったらこんな状態にはならなかったと思うよ」

栗原さんは表情を曇らせて、ぽつりと呟いた。闘争は結果的に、立川基地の拡張計画を中止させた。しかし一方で、住民たちが今まで長い間築いてきた近所のつながりも瓦解させてしまったのだ。拡張計画が中止になった後、条件派の人々が立ち退いた土地は、国有地としておよそ半世紀経った今でも残されている。活用に向け、自治体と住民で取り組みが行われているものの、まだ詳細は決まっていないそうだ。

「国有地が残っている以上、闘争は終わっていないんだよ。お店などができて地域の人たちにとって便利になること、それが一番の願いだね」

取材の帰り道、私は砂川の町を歩いた。蒸し暑さに時折汗を拭いながら、足を止めて辺りを見回す。至る所に畑でも田んぼでもない殺風景な空き地があった。これらがおよそ半世紀にわたって残る国有地だ。このぽっかり空いた土地のように、栗原さんは今でもきっと大きな寂しさを抱えているのではないかと思った。栗原さんから直接お話を聞き、そして今でも残る闘争の爪跡を目の当たりにして、砂川闘争が決して過去のものではないことを確信した。「この事実こそ、今伝えなければ」。取材前にはわからなかった「五七年前のことを今伝える意義」。それが、この時やっとわかったような気がした。抱えていた不安は、使命感に変わっていた。

それから一ヶ月にわたり、私は番組制作を進めた。汗を流しながら撮影し、夜を徹して編集した。砂川にも数え切れないほど足を運んだ。完成が見えず、投げ出したくなる時もあった。それでも、「闘争は終わっていない」という栗原さんの言葉を思い出す度、自然と心が奮い立った。

そして七月末、梅雨明けと同時に番組は完成し、翌月無事に放送された。タイトルは、『砂川の記憶―五七年目の証言―』。砂川闘争の当時の状況を知る方々の証言や、闘争に関する写真、記録映像などをまとめた十分間のドキュメンタリーだ。その後、完成した番組のDVDを持って栗原さんを訪ねた。既に近所の方と一緒に番組をご覧になったという。

「こうやって闘争の記憶を広く伝えてくれて、話した甲斐があるよ。私だっていついなくなるかわからないんだから。嬉しい限りだよ」

笑顔でそう話す栗原さんを見て、私は安堵した。たとえ五七年前の基地闘争でも、実際に現地に目を向け、耳を傾ければ、今でも残る問題があった。そして新たに証言を残すこともできた。それらを今、映像という形で幾ばくかの人に伝えられたことを私は誇りに思う。

栗原さんの家からの帰り道、暮れなずむ砂川の景色を眺め、こう願った。

「この街並みがいつか、砂川の人々にとってより良い姿に変わりますように」

頭上には、いつになく美しい鱗雲が広がっていた。
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by tamatanweb | 2012-12-01 00:00 | 制作日誌