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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 未完の一○○点を追い続けるということ ―銭湯背景画家に出会って―   

法学部政治学科二年 岡田紗由香



銭湯の壁に広がる富士山や島々。その美しい日本らしい景色と優しい色合いは、入浴する人々の心を癒し続けている。その絵は、「銭湯背景画」と呼ばれるものだ。この銭湯背景画が誕生したのは、大正時代のことである。当時東京都千代田区にあった「キカイ湯」という銭湯が、お客さんを喜ばせるために画家に絵を依頼したことが始まりと言われている。銭湯背景画は、一〇〇年もの歴史を持つ日本独特の文化である。

しかし近年、銭湯の減少に伴い、この背景画は急速に姿を消しつつある。現在銭湯背景画を描く絵師は、日本に二人しかいない。東京都国立市に住む丸山清人さん(七七)は、そのうちの一人である。大ヒットした映画「テルマエ・ロマエ」に登場した銭湯背景画も、彼の手によるものだ。

私が丸山さんの存在を知ったのは、国立市の情報誌に掲載されていた小さな記事がきっかけだった。その記事によると、丸山さんは七色のペンキだけを使い、たった一日で大きな背景画を描き上げるのだという。

またその記事には、丸山さんが背景画を描いている写真も掲載されていた。丸山さんの背景画は、優しい色使いで描かれている。その背景画を見ていると、私の心は自然に温まっていった。そしていつの間にか私は、丸山さんの背景画に心を奪われていた。一体どんな人なのだろう。丸山さんに興味を持った私は、記事に記載されていた連絡先に早速電話をかけた。

丸山さんと初めてお会いする日、私の心臓は驚くほど高鳴っていた。私にとって初めての取材。どんな方なのだろうか、一大学生にどこまで話をしてくださるのだろうか―...。私は不安で胸がいっぱいだった。しばらくすると、丸山さんが待ち合わせの場所にやって来た。私の不安とは裏腹に、丸山さんはとても気さくで優しい方だった。喫茶店に入り、私は早速インタビューを始めた。丸山さんは私の質問に一つずつ丁寧に答えてくださった。そして、過去に描いた背景画の写真を、たくさん見せていただいた。「わぁ...」。写真に写っていた壮大な背景画を見て、私は思わず声を上げた。すると丸山さんが言った。「背景画を描く技を覚えるには、六年くらいかかるんだよ。師匠は手取り足取り教えてくれないから、師匠が描いている様子を見て技術を盗むしかなかったね」。丸山さんは微笑みながら、さらにこう続けた。

「私は五〇年以上この仕事を続けているけど、嫌になったことは一度もないんだよね。だから私は、この仕事を天職だと思っているんだ」

そう語る丸山さんに、私は感銘を受けた。丸山さんの銭湯背景画に懸ける情熱と技を人々に伝えたい。そう思った私は、丸山さんという人物を、ドキュメンタリーとして描くに決めた。

すぐに、番組構成を立てた。そして、丸山さんのもとに何度も足を運び、カメラを回した。すべての撮影を終えて、すぐに編集を開始した。しかし、意気込んで編集作業に取り掛かったものの、思い描いていたように映像を繋ぐことができない。ああでもない、こうでもない...。こうして何度も構成を練り直したが、満足のいくものにはならなかった。映像制作の難しさを、私はそこで実感した。「このままでは、駄目だ」。そう思った私は、今まで撮影してきた映像素材を一から見返すことにした。そして、ある映像を見返した。それは、丸山さんが背景画を描いている様子を撮影したときのインタビューだった。

背景画を描き上げた丸山さんに「点数をつけるとしたら、今日描かれた絵は何点ですか?」と私が質問した。すると、丸山さんから驚くような答えが返ってきた。

「九〇点くらいだね。一〇〇点はないんだよね。これで良いと思ったらそこで終わってしまうでしょう?だから一〇〇点をいつも目指して背景画を描いているんです」

丸山さんは、この道五〇年以上のベテランである。それにもかかわらず、自分が描いた絵に満足したことは、今まで一度もないそうだ。背景画を描き上げた後は、毎回必ず反省点を自ら挙げているという。そう語る丸山さんの眼差しは、真っ直ぐで力強かった。

そのインタビューを見終わった時、私の中にあった迷いは消えていた。モノを作る人は、決して達成することのできない一〇〇点を追求し続けることが大切なのだ。「丸山さんのように、私も一〇〇点を追求しながらやってみよう」。そう自分の姿勢を変えてからは、編集作業がスムーズに進むようになった。

約六ヵ月をかけ、私は遂に一本のドキュメンタリーを完成させることができた。「自分の作品は何点だろうか」。私はそう自分に問いかけてみた。やはり出た答えは、「一〇〇点ではない」だった。もちろん、私は精一杯の力で、番組を制作した。しかしここで満足したら、きっとこれから今の自分を超えることができない。だから、「一〇〇点ではない」のだ。

今回制作したドキュメンタリーは、私にものづくりの基本的な姿勢を教えてくれる、私自身の原点となった。これからきっと、ゼミ活動において、また映像制作や、原稿執筆の機会があり、また壁にぶつかって、悩むこともあるだろう。しかしそんな時は、丸山さんの姿と生きる姿勢を思いだしながら、制作活動に励んでいこうと強く思う。
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by tamatanweb | 2013-01-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 米軍輸送機墜落事故の記憶を追って ~目撃者と出会って学んだこと~   

文学部人文社会学科社会学専攻三年 曽田健太郎



「航空機事故」と聞いて、何が思い浮かぶだろうか。おそらく多くの人は、「日本航空一二三便墜落事故」を思い出すだろう。しかし、今から約六〇年前、東京都小平市で航空機事故として初めて一〇〇名を超える死者を出す当時史上最大の墜落事故があったことは、あまり知られていない。この事故は、「米軍立川基地グローブマスター機墜落事故」と呼ばれている。

一九五三年六月一八日午後四時三一分、米軍輸送機C-124が朝鮮半島を目指し、米軍立川基地を離陸した。「グローブマスター」の愛称を持つこの輸送機には、日本で休暇を取っていた朝鮮戦争従軍兵士および輸送機の乗員ら一二九名が乗っていた。しかし離陸からわずか二分後、グローブマスターはエンジントラブルを起こした。そして米軍立川基地からおよそ一〇km離れた地点に墜落した。そこは、東京都小平市小川のスイカ畑だった。乗っていた一二九名全員は死亡。地上にいた日本人に死者はなかった。しかしスイカ畑で農作業をしていた男性が、軽い火傷を負った。

私がこの事故を知ったのは、二〇一一年六月一九日付の読売新聞地方版の記事がきっかけだった。墜落したグローブマスターを操縦していた米国空軍パイロットの親族と、事故を目撃した男性が面会したという内容だった。こんなにも大きな事故が、多摩で起きていた歴史的事実を私は全く知らなかった。

私は事故についてもっと詳しく知りたいと思い、文献を探してみることにした。しかし驚くべきことに、この事故について記されている文献は、ほとんど残っていなかった。おそらく事故当時、米軍による厳しい情報規制があったため、現存する資料が少ないのだろう。

現存する事故の資料が少ないならば、私たち学生がこの事故の記録を掘り起こし、ドキュメンタリーとして後世に残したいと思った。数少ない文献からたどっていって、なんとか三名の事故目撃者を探し出すことができた。私たちはさっそく電話をかけ、「事故について話を聞かせてほしい」と頼み込んだ。見ず知らずの学生の突然のお願いに、拒否されるかもしれないと思ったが、皆さんは意外にも取材、撮影について快諾してくれた。

三名の方々は、カメラの前で、事故当時の様子を事細かに語って下さった。輸送機が迫ってくる爆音、墜落後に立ち上った火柱、バラバラになった輸送機...。事故の文献的な記録は残っていなくても、人々の心の中には事故の記憶が根強く残っている。そのことを、私は強く実感した。

三名の目撃者の方々の証言をカメラで記録した後、映像編集作業に取りかかった。しかしすぐに、壁にぶつかった。貴重な証言や写真を入手することはできた。しかし私はそもそもどんな番組を作りたいのだろうか、という根本的な疑問が生じて来たのだ。資料をつなげただけでは、単なる事故を紹介する番組になってしまう。事実関係をなぞっただけの作品では、すぐに、この事故は忘れられてしまうのではないだろうか。 なんとか、視聴者の人たちに「多摩の地で、史上最大の死者を出した米軍輸送機の墜落があったのだ」とインパクトを与え、記憶の風化を防げるような番組を作りたい。私はそう思い、何度も構成を練り直した。しかし、なかなか望むような番組構成は出来上がらなかった。

混乱した頭の中を一度整理するため、私はゼミの仲間と共に、墜落事故が起きた現場を訪れた。すると、夏の強い日差しの中、一人の男性が畑で農作業をしていた。私は、駄目元でその男性に話しかけた。「墜落事故について、ご存知ですか?」。するとその方は答えた。

「知っているよ。墜落する現場を目撃したからね。私は昔からずっと、その事故の犠牲者に線香をあげ続けているんだ」

驚きのあまり、私は腰が抜けそうになった。現存する文献をどんなに探しても、目撃者は三人しかいないはずだった。「これ以上の目撃者は見つけられない」と、私は諦めていたのだ。

「番組を完成させるには、この人に出演してもらうしかない」と思った。これが、丹生(たんしょう)伊佐男(いさお)さん(七三)との出会いだった。

丹生さんは、墜落事故に対する思いを一つずつ丁寧に話してくれた。事故で亡くなった方々が成仏できるように、現在も一人で線香をあげ続けていること。そして、この墜落事故の記憶は、決して風化させるべきではないということ、を。

丹生さんに出演していただくことにより、現在も事故を忘れることなく、犠牲者に思いを捧げている人がいることを描くことができた。

そして二〇一二年九月、ドキュメンタリー番組「グローブマスター機墜落事故~消えゆく記憶を追って~」が完成した。それは、事故の記録だけではなく、「事件の記憶を風化させずに未来に残したい」という多摩の人々の思いをも、盛り込むことができた作品となった。

私はこの事故についての番組制作を通して、一つ大切なものを得ることができた。それは、「人との出会いに感謝する心」だ。今まで私は、大学内で楽しく過ごして来たが、大学の外の人とコミュニケーションすることをしてこなかった。しかし、番組制作活動を通して、偶然出会うことができた四人の目撃者の方々が、私のような一大学生の為に、多くの時間を割いて、歴史的な航空機事故についてお話をして下さった。それは、「この事件の記憶を後世に残したい」と彼らが強く願っていたからだと思う。

一年四カ月に渡った取材を振り返ってみると、人と出会い、話をすることで、学べることや得られるものがたくさんあるということに、私は気付かされた。

「立川基地グローブマスター機墜落事故」。事故から半世紀以上が経過し、その墜落現場に事故を想起させるものは何一つ残っていない。そして事故を記録している文献も数少ない。だからこそ私は、自分が制作した番組を通して、この事故の記憶を多くの人に伝えていきたいと思う。四人の目撃者の方々から、私はそのバトンをもらったのだから...。
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by tamatanweb | 2013-01-01 00:00 | 制作日誌