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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 過疎の村・桧原村で生きる医師を追って   

文学部人文社会学科中国言語文化専攻四年 山崎 由芽



今、少子高齢化の進展で日本の人口は減り始めている。村落や離島では過疎化の勢いは止まらない。そして、東京都多摩地域にも、過疎化の一途を辿り、"限界集落"に近づいている村がある。「東京都桧原村」である。伊豆諸島と小笠原諸島を除いた東京で、唯一の村である。住民のうちの約四割が六五歳以上の高齢者だ。かつて林業が盛んであったが、今では仕事も減り、若い人たちは皆、村外へ出て行くという。こうした過疎の村では一般的に医師不足の問題をかかえていることが多い。しかし、この檜原村には長年、村人たちの命と健康を支えている医師がいる。

今回の「多摩探検隊」は、約二六○○人の村民を支える医師と地域医療の現場に迫った。私は四年生最後の作品として、その番組のプロデューサーを務めた。このドキュメンタリーは、二○一三年三月、「檜原村と共に~地域医療の現場で~」としてケーブルテレビ八局で放送された。

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同年一月、武蔵五日市駅から雪道をバスに揺られて三〇分、私は「やすらぎの里」という停留所に着いた。周りは山に囲まれ、川の流れる音が聞こえる。ひんやりと冷たい風に身震いをした。停留所の目の前にある施設が、村で唯一の医療機関「檜原診療所」である。

今回の取材対象者は、二一年間この診療所で医師を続けてきた田原邦朗先生(五五)である。田原先生は、外来診療の他に、山道を歩いて来られない高齢者のための「訪問診療」も行っている。先生は非常に多忙で、昼休みの一時間半という時間を割いて私たちの取材を受けてくれた。

しかし、最初のうちは「忘れちゃったな」、「あまり考えたことがないよ」とあまり話してもらえなかった。私は、田原先生の本音を上手く引き出すことができず、聞き手としての未熟さを痛感した。まずは信頼関係を築こうと田原先生の元に何度も足を運んだ。そのうちに、ポツリポツリと本当の気持ちを話していただけるるようになった。もちろん番組制作をすることは楽しいことばかりではなかった。けれど、田原先生の方から訪問診療やその他の現場に同行しないかと誘ってもらった時には、認められた気がして嬉しかった。

取材をしていく中で、印象に残る言葉があった。「診療所に来る医師の多くが一年程で辞めてしまう状況の中、田原先生はなぜ二一年間も続けてこられたのか」という私の質問に、先生は「楽しいから」と答えた。私は、先生の仕事の原動力となっているのは、「高齢化する村の人を支えるため」といった使命感だろうと勝手に思っていた。半日がかりで山の中へ訪問診療に出かけることや、どこまで治療を施すかという判断を全て自分で行う大変さを聞いていたからだ。田原先生の口から「楽しい」という言葉を聞けたことは、本当に意外だった。
しかし、それは診察の現場を見れば、その言葉の意味は一目瞭然であった。診察室や訪問診療の部屋では笑い声が響き、先生と患者は世間話を楽しんでいた。患者の一人である小泉英子さん(八八)は「かけがえのない先生だよ。やっぱり長くいる人じゃないとね」と笑顔で私に話してくれた。

私は過疎化した村のなかでしっかりとつながっている人々の気持ちに触れ、熱い気持ちになった。田原先生と村の人との関係は二一年間でしっかりと築き上げられたものであった。

田原先生は決して楽ではないはずの仕事を「楽しい」と言っていたことを思い出した。都心にいればもっと高給料で働けたかもしれないが、田原先生は檜原村で働くことを選び、地域の方々と支え合って暮らしている。「楽しい」という一言に、その理由が、全てが詰まっている気がした。お金にはかえられないものがたくさんあることを、そして働くことの意味を教えて頂いた気がした。

私は四月から報道機関で働く。この経験を胸に、社会人として頑張っていきたいと思う。

番組完成の報告に診療所を再び訪れた。すっかり雪の溶けた檜原村の日差しの中に、春の訪れを感じた。
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by tamatanweb | 2013-06-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「消え行く基地の街・立川」の記憶を追って   

法学部法律学科三年 森亮介



かつて立川市に米軍立川基地があったのをご存知だろうか。一九四五年から一九七七年までの三二年間、米軍が立川に駐留した。そのことだけなら、大半の人が知っている。しかし、基地があった時代と現在とでは、「立川」という街はどう違うのだろうか。そういう比較の話になると、ほとんどの人が知らないと思う。なぜなら、現在の立川には基地時代を感じさせる物がほとんど残っていないからだ。

立川は、多摩の中心都市である。訪れる理由は各々かもしれないが、この街へは「遊びに行く」人が多いのではないか。少なくとも、私はそうだった。ところがある日、偶然入った駅近くのバーで、衝撃的な話を聞くことになった。

私に話をして下さったのは、『潮』というバーの店主・白根宗一さん。御年八五歳になる生粋の地元民だ。白根さんは、一人で店を訪れた私に向かって「君は、立川に米軍が駐留していたことを知っているか?」と尋ねてきた。「一応、知っています」。そう私が答えると、白根さんはこう続けた。「僕は終戦直後、基地内で働いていてね...」。戦前は軍都だった立川の話、戦後の混乱、米兵相手の娼婦たち、意外と気さくだった米兵たち、朝鮮戦争に行く兵隊の心境、米軍基地反対闘争など...。しばらく話を聞いていた私は、不思議と目頭が熱くなったのを感じた。白根さんが語る全てのエピソードが、現在では考えられないものだったからだ。最後に白根さんは「でも、今の立川には基地時代の面影がないんだ。歴史が跡形もなく消えていくのは悲しいね」と呟いた。私はハッとした。今まで「何の気なしに」訪れていた街に、戦前から戦後にかけて、様々な壮絶な過去があった...。急に、いてもたってもいられない気持ちになった。帰り際、足を引きずりながら店内のカウンターを移動する白根さんを見て、「消え行く基地の街・立川の記憶」をテーマにした番組を早く制作しなければと思った。

その翌日、私はすぐに、番組の構成を考えた。試行錯誤して、「リポーターが立川の街を歩き、基地時代を知る方々を訪ねる」という構成に決めた。取材対象者には「証言者」という立場で語っていただき、当時の資料をふんだんに盛り込んだ番組にしようと思った。立川は基地時代と現在を比べると、街の姿が大きく異なっているということも伝えたかった。このため、リポーターの「街歩き」を通してそれを描こうと考えた。

まず白根さんと同じような「米軍基地時代を知る証言者」を探すべく街へ出た。とにかく古そうな飲食店などを飛び込み営業であたった。都市開発の進んだ立川で、めぼしい店を探す作業は困難を極めたが、何十軒も探して『ダンボ』という洋食屋に辿り着いた。店主の山鹿(やまが)弘(ひろし)さんからお話を聞こうとしたが、初対面の学生に快くは語っていただけなかった。むしろ、無遠慮に聞いてくる私に嫌気すら感じているように思えた。しかし少ない会話の中で、当時ダンボの客のほとんどが米兵だったことを知った。それから私は、ほとんど毎日のように通いつめた。するとある日突然、山鹿さんは「基地時代は米兵による事件なんかもあった。立川はアメリカの植民地だったから仕方なかったね...」とポツリと語られた。過激な言葉に私は少しおののき、どう返答すればいいのか戸惑った。山鹿さんは深刻な表情をされていた。そこまで話してくださったことはなかったので、「証言者として番組に出てほしい」と私は直ぐに思った。しかし、山鹿さんの気持ちを考えると、過去の記憶をほじくり出すことは申し訳ないという気持ちになった。ところが山鹿さんは、「学生さんたちに、昔の歴史的事実を知ってもらうことは嬉しいね」と言ってくださった。その一言が、番組制作をしていく上で、私の心の拠り所となった。

また取材途中で、「立川の昔の写真を集めて、写真集やカレンダーを作っている人がいる」ということを知り、『立川印刷所』に向かった。三代目の鈴木武さん(五一歳)は、古くなって傷んだ昔の立川の写真をデジタル化し、写真集やカレンダーを作っている。鈴木さんは、「子供の頃はまだギリギリ米軍立川基地の影響が街にあった。基地時代を知る最後の世代として、後世に昔の立川の姿を残しておきたい」と語った。私は、鈴木さんが抱く使命感に共感し感動した。

事前の取材を終え、番組全体の構成を立てた後、いよいよ撮影に入った。「証言者」である、バー『潮』の白根さん、『ダンボ』の山鹿さん、『立川印刷所』の鈴木さんからは、インタビューを収録させていただいた。それからようやく編集作業に入った。毎日朝から晩まで、編集に没頭した。年の瀬で閑散としたキャンパスへ通うのは、孤独だった。しかし、撮影したテープを見る度に、弱音を吐いている場合ではないと身を引き締めた。

苦労して収拾した昔の写真の中に、戦後の立川で米兵相手の娼婦(パンパンと呼ばれていた女性たち)の写真があった。よく見ると、年齢は私とほぼ変わらないぐらいだった。彼女達は本当に優しそうで素朴な笑顔をしていた。ある女性は母親を養うために身を落とし、結核にかかりセキをしていたという。まだ若く、あどけないその笑顔に、私は個人が特定できないように配慮してボカシをかけた。先程まで純朴に写っていた彼女たちの表情は一変し、たちまち怪しくなってしまった。公共の電波に乗せる以上仕方ないことだったが、この作業をするのは私にとって、なぜか一番心が痛んだ。

戦争と敗戦、米軍による統治という歴史の渦に巻き込まれた罪もない若い女性たちの運命を思った。当時の立川を描くということは、私が想像していた何倍も辛いものだと痛感した。戦前は軍都・立川と言われ、戦後は米軍基地の街となり、基地反対闘争でたびたび血が流された。編集作業を続けながら、立川という街は歴史の渦に翻弄されながら、発展してきたのだということを学んだ。

結局、総制作期間九ヶ月で番組は完成した。私は最後に再び、番組を冒頭から見てみることにした。すると、九ヶ月前は白根さんのお話で「目頭が熱くなった」だけの私が、今度はしっかりと「涙が溢れていた」。これが大学生活で初めての涙だった。

完成の翌日、私は改めて立川を歩いた。近代的な建物が目立っていた。しかし、じっと街を見ていると、番組で使用した昔の立川の写真が頭に浮かび、歴史の流れを肌で実感した。『ダンボ』にハンバーガーを食べに来ていた米兵は、戦場から無事に帰ってきただろうか。写真の中で微笑んでいた娼婦の方々は、今どこにいるのだろうか。元気に暮らしているだろうか。色んな思いが頭の中を駆け巡った。夜の立川の喧騒が、私の心に切なく響いた。
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by tamatanweb | 2013-06-01 00:00 | 制作日誌