無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 <   2014年 02月 ( 2 )   > この月の画像一覧   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ある獣医とのかけがえのない出会い   

法学部政治学科3年 岡田紗由香



みなさんは「ノネコ引っ越し作戦」をご存知だろうか。「ノネコ引っ越し作戦」とは、小笠原諸島のノネコを本土に搬送し、飼い猫にするという活動である。

小笠原は今まで一度も大陸と繋がったことがないため、珍しい生物が数多く生息している。小笠原の独特な生態系は世界的に認められ、二◯一一年に世界自然遺産に登録された。しかし、小笠原では希少種の生物が絶滅の危機に追いやられていた。その原因の一つが、外来種であるノネコの存在である。ノネコは、希少種の生物を捕食したりその繁殖地を襲ったりして、希少種を絶滅寸前まで追い込んでいたのだ。小笠原では希少種を保護するためにノネコの安楽死が検討されていたが、新ゆりがおか動物病院の院長である小松泰史先生(五六)が希少種の命もノネコの命も両方守る「ノネコ引っ越し作戦」を提案し、小笠原の方々と協力しながら活動に取り組んでいる。私は、この引っ越し作戦を追ったドキュメンタリー番組「ノネコの引っ越し作戦~海を越えて命を守る~」を制作し、第一一三回多摩探検隊(二〇一三年九月)として放送した。

私はこの番組制作にカメラマンとして参加していたが、一通り撮影を終えた後、急遽ディレクターとして編集作業を務めることになった。取り上げるテーマが難しいため、ディレクターという重役を私が務められるか不安だったが、取材段階からプロジェクトに携わっていたことと、過去にも多摩探検隊を制作した経験があったので、なんとかなるだろうと思っていた。しかし、いざ編集に入ってみると一筋縄ではいかなかった。膨大な量のテープから使えそうな映像の選別に始まり、度重なる番組構成の立て直しやナレーション原稿の練り直し、資料・データ集め…。時間が早々に過ぎていく一方で、やることばかりが溜まっていった。私は、思っていたより大変な編集に嫌気がさし、モチベーションが下がっていった。次第に、「ディレクターなんか引き受けなければ良かった」とまで思うようになっていた。

そんな時、小松先生と直接お会いする機会があった。小松先生は「用事のついでに」と言って、わざわざ資料を大学まで届けてくださったのだ。それだけでもありがたい気持ちでいっぱいだったのに、その次の日に「昨日の資料は役に立ちそうですか。夜遅くまで大変ですね。また何か分からないことがありましたら、ご連絡ください」とメールが送られてきていた。小松先生のその言葉が、私の心にじんわり染み渡った。「なんてことを考えていたんだろう」。私は、ディレクターを引き受けたことを後悔していた自分を恥ずかしく思った。「小松先生を始め、多くの方の協力があるからこそ、この番組は成り立っている。何としても最後までやり遂げなくてはいけない」。そんな思いが、自然と湧いてきた。

約三ヶ月の編集期間を経て、終に一〇分のドキュメンタリーを完成させ、無事に放送することができた。私は真っ先に、小松先生に番組完成の報告と番組制作にご協力いただいたお礼の電話を掛けた。すると、「長い間お疲れ様でした。私も家で放送を見てみますね。」と嬉しそうに話してくれた。

その数日後、私の携帯電話に小松先生から電話が掛かってきた。それは番組を見たという報告の電話だった。「番組見ましたよ。よくまとまっていて、とてもいい出来でした。ありがとうございました」。小松先生がわざわざ連絡をくださったことがとても嬉しかった。そして、ふとあの日のやり取りを思い出した。小松先生のあのメールがなければ、きっと番組を完成させることはできなかっただろう。私は、次第に目頭がじんわり熱くなるのを感じた。

私は、この番組のディレクターを引き受けて本当に良かった。途中で編集を投げ出したくなることも何度もあった。しかし、小松先生との出会いは大学時代のかけがえのない思い出となった。きっとこの先、この出会いを忘れることはないだろう。

*「ノネコの引っ越し作戦~海を超えて命を守る~」は二〇一三年「地方の時代」映像祭で奨励賞を受賞した。
[PR]

by tamatanweb | 2014-02-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 10年の歴史を背負って   

文学部フランス語文学文化専攻2年 佐伯綾香

私の所属するFLP松野良一ゼミでは、若狭たかはま子ども放送局という活動を行っている。活動場所の福井県高浜町では、毎年夏に漁火想というお祭りがある。若狭たかはま子ども放送局は、このお祭りに合わせて、高浜町の子どもたちと大学生がVTR を制作するプロジェクトだ。若狭たかはま子ども放送局は、漁火想を第1回から毎年取り上げており、漁火想とともに、今年で11回目を迎えた。今回、私たちは、漁火想のリポートをする漁火想班と、町の良いところを紹介する町班に分かれて活動した。私はディレクターとして、町班を担当することになった。私はゼミに入る前から、若狭たかはま子ども放送局に参加したいと思っていた。そのため、ついにこのプロジェクトに、ディレクターという立場で参加できることへの喜びで胸がいっぱいだった。

 だが、現実はそう甘くはなかった。番組の企画探しという最初の段階から難航したのだ。企画は、今までに子ども放送局で取り上げていない、高浜ならではのものを見つけなければならない。それは容易なことではなかった。役場に電話をしても、企画になりそうな情報は仕入れられない。毎日毎日、パソコンで企画を探しても、見つかるのはこれまで子ども放送局で取り上げられたものばかり。企画が見つからなければ、活動はできない。もし企画が見つけられなかったら…。10年の歴史を途切れさせてしまうのではないかと、私はこの重責に押しつぶされそうだった。

 そんな時、私は、高浜町に若狭ふじという特産品のブドウを栽培している方がいることを知り、連絡をとった。若狭ふじを栽培している方の「若狭ふじを食べた人に、またこれを食べるために高浜に行こうと思ってもらいたいんです」という言葉を聞き、私はこの若狭ふじを、企画として取り上げようと決めた。しかし、私たちが撮影を予定していた日は、若狭ふじの収穫期間とかぶっていたため、撮影不可能だった。私は頭の中が真っ白になった。もう当日までほとんど時間は残されていなかったにも関わらず、振り出しに戻ってしまったのだ。「もう町班は活動出来ないのではないか」と、茫然自失の状態になってしまった。

 そんな時、私を支えてくれたのは、ゼミの先輩や同期、家族、これまで快く応対してくださった高浜の方々だった。次へ進んでいくしかないんだよと背中を押してくれた先輩や同期。離れていながらも、心の底から応援してくれた家族。そして協力してくださった高浜の方々。「ここで私が諦めるわけにはいかない」。そう強く思った。 私は一心不乱に企画を探し続けた。ネットに掲載されている高浜町の広報誌を片端から洗いなおした。そしてようやく、昭和60年代、高浜町は日本一民宿の多い町だったという事実を発見したのだ。これは企画になる!という直感が働いた。ついに、子どもたちが女将体験を通じて民宿の姿をリポートするという内容の番組を作ることが決定した。

活動当日、60年の歴史を持つ「五作荘」という民宿で撮影を行った。五作荘は日本で初めてフグの蓄養に成功した民宿だ。今でも民宿の近くの海にフグの生簀があり、約500匹ものフグを蓄養している。子どもたちは、ボートに乗って岸から生簀へと向かい、ご主人にコツを教えてもらいながら元気いっぱい餌を投げた。大口を開けて餌にかぶりつくフグの姿を、子どもたちはとても興味深そうに見ていた。フグの餌やりの他にも、客室の掃除や夕食の下準備などたくさんの活動を行ったため、少し慌ただしい撮影になってしまった。予定通りに撮影が進行できなくなってしまうかもしれないと、大学生は焦っていた。そんな時、子どもたちがインタビューの受け答えを上手く出来なくなってしまった時があった。ただでさえ緊張しているところに、大学生の焦燥感が伝わってしまい、子どもたちは追い詰められていた。そのことに気付かされた私は、少しでも余裕を持たせてあげなければと、「素直に思った事を言ってみよう、大丈夫だよ」と励まし続けた。すると子どもたちは、それに応えようと明るく元気にリポートしてくれた。

撮影も無事に終了し、翌日には完成した番組の上映会が行われた。上映後に、町班の子どもたちが私の元へやってきた。「すごく楽しかったよ。また来年も来てね!」と言って、少し恥ずかしそうに手紙を渡してくれた。その時、心の中にあった様々な思いが、涙と一緒にあふれ出した。若狭ふじの企画がつぶれて諦めていたら、子どもたちの笑顔に正面から向き合うことはできなかっただろう。そして、私が今こうしていられるのは、たくさんの人が支えてくれたおかげだ。若狭たかはま子ども放送局を通じて、本当に大切なことに気づかされた。

帰りの電車の中で手紙を読んだ。「大変で嫌になっていた時、励ましてくれてありがとう」。子どもたちの笑顔を思い浮かべながら、私は高浜の地を後にした。
[PR]

by tamatanweb | 2014-02-01 00:00 | 高浜子ども放送局