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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 最後に流した涙は嬉し涙~走り切った先に見えたもの~   

法学部法律学科二年 秋山美月

 番組制作は私にとってとても長いマラソンのようであった。私は二〇一三年二月多摩の情報誌をきっかけに一人の職人の方と出会い、職人としての姿や思いに迫った。そして同年一一月に放送された第一一五回多摩探検隊「尺八職人~音色に想いをのせて~」という番組としてまとめた。

 東京都狛江市に住む三塚幸彦さん(五九)は多摩地域で唯一尺八を制作されている方だ。みなさんは尺八という楽器をご存じだろうか。尺八は奈良時代に雅楽器として伝来し、鎌倉時代では仏教の修行道具として広まった。現在は木管楽器として、多くの人々の心を魅了している和楽器である。新緑がまぶしく輝き、初夏を感じられるようになった五月下旬、撮影は始まった。三塚さんはとても親切で、撮影のほとんどは順調に進んだ。だが、制作工程の撮影を行うときにある問題が起こった。それは制作工程の撮影内容についてであった。私はどんな映像を撮りたいか、番組の構成についてなどを事前に細かく考え準備し、三塚さんにも連絡し了解をいただいているつもりだった。しかし、撮影当日に「あなたの考えていることが分からない」と言われてしまった。三塚さんとの意思疎通が十分にとれていなかったのだ。三塚さんは制作工程の中で一番力を入れているところを重点的に撮影してほしかったのだが、私はまず制作工程の大筋を撮影してから、力を入れているところを詳しく撮影したかったのだ。私は相手にはっきりと自分の思っていることを伝えるのが苦手で、いつもあいまいにしてしまう癖があった。そのせいで三塚さんを困らせてしまったのだ。何とか撮影を行うことはできたが、自分の思いをうまく伝えられることができなかったというわだかまりが、心の中に残った。

 撮影が終了したあとの作業も、なかなか順調には進まなかった。尺八は時代と共に変化した楽器であり、歴史がとても複雑だ。わかりやすく説明するためには、写真などの様々な資料が必要になる。まず、その資料を提供してくれる場所を探すのに苦戦した。正倉院をはじめ、区役所、美術館、他大学の図書館などに資料を提供してもらえないか、電話や文書で何度も交渉した。撮影での反省を生かし、主旨や自分の考えを明確にし、相手の方に理解してもらうことを常に考えて行動するように心がけた。その結果、なんとか正倉院と新宿区役所から資料を提供してもらえることになった。そして、三塚さんの「ただ残すのではなく、良いものを残していくことが伝統を継承していくことなんだ。改良を重ねることでより良いものを作り多くの人々に尺八の音色を楽しんでもらいたい」という思いを伝えることができるように、何度も構成を立て直した。三塚さんの思いをどうすれば視聴者の方に届けることが出来るのか。映像、ナレーション全てにこだわり、試行錯誤した。制作工程一つを説明するのにも何種類ものナレーションを考え、視聴者にとって一番理解しやすい表現を探し求めた。思い返すと、ただただひたすらパソコンと向き合う夏休みだった。家にいることよりも編集室にいることが多くなり、そんな生活に嫌気がさしてしまった時期もあった。気持ちに余裕がなくなり、涙を流してしまうこともあった。しかし、どんなに迷い悩んでも、取材を重ねて職人としての三塚さんの熱い思いを知った以上、編集の手を止めようという気持ちにはならなかった。少しでも多くの人に三塚さんの思いを知ってもらいたい、その一心で編集作業を行った。そして先生や先輩方に何度もチェックして頂き、ゼミ生や家族、友人に支えられ、ついに、六ヶ月の編集期間を経て無事番組を完成させることができた。

 番組が完成し三塚さんにDVDをお届けする日、私の心の中を表しているかのようにしとしとと雨が降っていた。私は三塚さんに会うのが正直不安だった。取材の時のわだかまりがまだ残っていたからだ。「番組のことをどう思っているのだろうか」と工房に近づくにつれ、不安は募るばかりであった。そして工房を訪ね、DVDをお渡しした。不安でいっぱいだったが、嬉しそうに頬を緩めている三塚さんの姿がそこにあった。正直、取材当時の三塚さんは気難しい表情をされることが多く、怖い印象だった。しかしその日私が目にしていたのは、柔和な表情で編集生活について尋ねてきてくださる三塚さんだった。少しずつ不安が安心に変わっていった。帰り際に三塚さんから「こんなに立派なものをありがとう。長い間ご苦労様でした」と言ってもらえた。帰り道は雨が止んでいて、夕日が沈みかけていた。歩いていると嬉しさからか、涙がこみ上げてきた。三塚さんが喜んでくれたことが何よりも嬉しかった。

 私にとって番組制作は、とても長く険しい道のりであった。相手に思いを伝えることの難しさを痛感し、自分の弱さとも向き合った。編集作業は長時間パソコンと向き合い、とても孤独だった。しかし番組制作は、取材に同行してくれたカメラマンやVTRを何度も確認してくださった先輩、撮影に快く応じてくださった取材対象者、すべての方の協力で成り立ってできているものだと感じた時、孤独だと感じることはなくなった。私は今回の経験から支えてくれる人の温かさを実感し、たとえ苦手なことでも誠意をもって取り組めば、喜びや楽しさを見出すことができると学んだ。

 ゼミ生や先輩、家族、友人からの励ましもあり、番組制作という長いマラソンを走りきることが出来た。走り切った後の爽快感と編集の時に幾度となく耳にした尺八の音色を胸にしまい、私は新しいスタート地点に立ちたいと思う。


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by tamatanweb | 2014-04-01 00:00

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「中大生」という細く強い糸を手繰って~「台湾二二八事件」プロジェクト   

総合政策学部政策科学科プロフェッショナルコース二年 添川隆太

 二〇一三年九月、私はある取材のため台湾へ行った。取材をする相手は八十歳の台湾人女性、王嬋如(せんじょ)さん。私が六十近く歳の離れた嬋如さんのもとを訪れたのは「台湾二二八事件」について取材をするためだった。

同事件とは、日本敗戦の後に、中国国民党に接収されたばかりの台湾で起こった。台湾人(本省人)と大陸からやってきた中国国民党(外省人)の間の抗争である。本省人たちは、日本敗戦後すぐは国民党を歓迎した。しかし、国民党の役人たちによる物資の横流しや賄賂の要求が横行し、台湾の人たちは、「犬(日本)が去って、豚(国民党)が来た」と揶揄した。日本人は犬のようにうるさいが番犬になった。しかし、国民党はただ貪り食うだけで役に立たないという意味で使われたという。

一九四七年二月二七日、台北で闇タバコを販売していた台湾人女性が、専売局の係官に暴行されるという事件が起こる。騒いだ市民に対して係官が発砲し、青年一人が死亡する。この事件がきっかけとなり、翌二八日から台湾人による抗議運動が台湾全土へと広がっていった。これに対し国民党は武力による制圧を行い、多くの台湾人を拷問、虐殺した。この事件による犠牲者は何万とも何十万とも言われているが(公式発表は二万八千人)、事件終息後に国民党による戒厳令がただちに敷かれたため、未だに正確な犠牲者数は分かっていない。戒厳令が解除されたのは一九八七年のこと。事件から四十年が経過して、ようやく台湾でもこの事件について発言できるようになってきた。

二二八事件の受難者には日本で学んだ経験を持つエリートが多くおり、その中には中央大学で学び、台湾に戻って活躍していたOBも含まれていた。私の所属するFLPジャーナリズムプログラム松野良一ゼミでは、「台湾二二八事件プロジェクト」として二〇一二年から中央大学出身の二二八事件受難者の家族から話を聞き、その証言を記録するという活動を行っている。事件を知る人の高齢化が進んでおり、彼らの言葉は貴重な歴史的証言である。

私はゼミに入るまで二二八事件を知らなかった。昨年の三月にプロジェクトに参加することが決まり、日本による植民地統治、日本の敗戦と国民党による台湾接収、二二八事件、戒厳令と白色テロ時代、戒厳令解除後から現代の民主主義体制に至るまで、台湾の現代史について勉強を重ねた。そして九月一〇日、私は取材のため、羽田空港から飛行機に乗り台湾へ向かった。

取材対象者の嬋如さんの父、王清(せい)佐(さ)氏は日本から台湾に戻った後、弁護士として活躍し、一九四六年には高雄市の議員にも当選した。二二八事件で清(せい)佐(さ)氏は、若者を扇動した嫌疑をかけられ逮捕され、約一〇〇日間拘留された。拘留中、清佐氏は手を針金で縛られ木から吊るされるという拷問を受けた。その後、清佐氏は幸運にも釈放されたが、事件のショックと拷問による傷が原因で手が自由に動かせなくなった。心と身体に深い傷を負ってしまった清佐氏は事件後、社会に復帰することはできなかった。


日本から突然やってきた見知らぬ一学生が、その辛い過去の記憶について取材することは、失礼にあたらないだろうか。取材をするうえで、それが大きな不安だった。

九月十一日、私は高雄市に住む嬋如さんのもとを訪れた。とても八十歳と思えないほど元気な方だった。また、嬋如さんは小学校の四年生まで日本人と一緒に学んでいたため、日本語がとても流暢だった。

取材は三時間にも及んだ。清佐氏の生い立ちから二二八事件、そして事件後の生活についてまで、嬋如さんはどの質問にも明るく丁寧に答えてくれた。しかし、二二八事件についての感想を聞いたとき、悲しそうな表情に変わった。

「どうして二二八事件で逮捕されたのか分からない。無実だったのに、罪を着せられた。父が事件に遭わなければ、もっと弁護士として活躍していたと思います。でも、あきらめるしかないです」

この言葉を聞いたとき、嬋如さんが六十年以上抱えてきた悲しみに、少しだけ触れることができたような気がした。

取材を終えた私は、日本に帰り今回の取材を一本のルポルタージュにまとめた。その時には取材前の不安は無くなっていた。それは取材の際に嬋如さんが言ったこの言葉があるからだ。

「おそらくあと何年か経ったら台湾でも、二二八事件のことはもう忘れられてしまいます。話す人が、いなくなってしまいますからね。しかし、今回、父の大学の後輩であるあなた方が来てくれたことを大変うれしく思います」

私はこの事件を知ったこと、台湾で嬋如さんにお話を聞かせてもらったことを、無駄にしたくなかった。それは使命感という大それた気持ちというより、「この事件を伝えていきたい」という素直な気持ちだった。日本統治が終了した台湾で、こんな事件があったという事実を誰かに伝えることが、私ができる唯一のことだと思ったのだ。

今回、私と清佐氏や嬋如さんを結んだのは「中大生」という細い一本の糸だった。しかし、その糸は、細いけれども、国や時代を越えて、強く確かに繋がっていた。


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by tamatanweb | 2014-04-01 00:00