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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 思いを伝えること   

法学部法律学科二年 西巻郁里

 大学2年、私の夏休みはなかった。しかしこの夏に経験したことは、決して忘れることのできない思い出になった。 それは「多摩探検隊」の取材と撮影だった。「多摩探検隊」は、私たちFLPジャーナリズムプログラム松野良一ゼミが制作し、放送している10分番組。多摩にある話題や魅力を取り上げているこの番組で、私は第117回の番組のディレクターを務め、軍道紙という和紙についてリポート形式の番組を作った。

軍道紙とは、あきる野市にある東京都唯一の手漉き和紙で、東京都無形文化財(工芸技術)にも指定されている。今回私は、ある雑誌に掲載された一つの記事で、軍道紙のことを知った。そこには「アートで多摩の伝統をつなぐ」という文字が踊り、色鮮やかな美しい花の絵があった。それが今回取材した一人の日本画家、阿部アヤさんの軍道紙を使った絵だ。今まで10年近く続いてきた「多摩探検隊」で、なぜこれほどまでに魅力的な話題が放置されていたのだろうか、と私は不思議に思った。

調べてみると、現在軍道紙を作っている場所はなんと「あきる野ふるさと工房」だけだという。そこで軍道紙を作っている方の思いを伺おうと決め、まずは電話だ!と意気込んだ。初めての番組ディレクター、初めての取材交渉。緊張で少し汗ばむ手で電話を握り、明るい声ではきはき印象良く話そう、とばかり考えていた。何回か呼出音を聞いたあと「もしもし」という年かさの男性の声で応答があった。しかし、笑顔で電話をした私は、数分後には泣いていた。「この工房はね、市からお金をもらって、やっとの思いで経営しているんです。職人でもない私たちが軍道紙に対する思いなんて、話すことはできません」と断られてしまったのだ。それでも、東京唯一の手漉き和紙を作る方としての思いを伺えないかとしつこく交渉した結果、ついに電話口で「取材はやめましょう。難しい話題です。学生さんには無理ですよ」と言われてしまった。目の前が真っ暗になった。

軍道紙は1967年に最後の職人さんが紙漉きを辞め、一度は伝統が途切れてしまった和紙だ。今回電話した工房で紙を漉いている方は、昔からの職人ではなく、紙漉き体験のために仕事を任された職員の方であった。工房は、市の補助金で紙漉き体験を提供しているものの経営赤字になり、閉館となってしまったこともあったという。今まで「多摩探検隊」で取り上げられなかった理由は、ここにあったのだ。

しかし、私は軍道紙を実際に見るため、電話をする前に工房を訪ねた時のことを思い出した。そこで見たのは、漉く人の手の温もりが伝わってくるような、あたたかい和紙であった。こんな手漉きの和紙がまだ東京にあるのだと、番組にして視聴者に伝えたい。その思いだけを胸に、電話口で必死に頭を下げて、紙漉き体験の撮影にだけなんとか応じて頂くことができた。

緑の深い山のふもとにある工房には、バスに乗って向かった。撮影当日は、真夏日だった。しかし、やかましい蝉の声も私の耳には入ってこなかった。一度は取材を断られた「あきる野ふるさと工房」で、撮影がうまく運ぶだろうか・・・。迷惑をかけてはいけないという緊張で、胸が張り裂けそうだった。無事に撮影を終えたあと、お礼を言うために工房の方に挨拶に行った。すると、「今回の取材は西巻さんにとっていい社会勉強になったと思うけど、こういうことは熱意のある方が勝つからね。お疲れ様でした」と笑顔で言ってくださったのだ。必死の思いで電話をかけた後、部屋で号泣したことを思い出した。わだかまりがすっと取れた気がして、熱いものがこみ上げてきた。

しかし、この撮影だけでは10分番組にすることができない。そこで、最後まで軍道紙を漉いていた元職人さんがいることを知り、その方に思いを伺えないかと考えた。微かな希望を胸に電話をかけた矢先、再び絶望的な壁にぶつかった。元職人である萩原さんは、96歳というご高齢で、耳が聞こえなかったのだ。リポーターを使うには、マイクを使ったインタビューが成り立たなくてはならない。どうしようかと悩んだが、ご無理を言って画用紙の文字を読んで、質問に答えて頂くことにした。

萩原さんは昔のことを本当によく覚えていた。自分の祖父よりも年上の萩原さんがご自身の言葉で語ってくれたのは、今や誰も語ることができない軍道紙の過去だった。画用紙をめくりながらのインタビューは、タイミングの工夫などが大変だったが、それでも丁寧に答えて下さった姿が心に焼きついた。撮影後、画用紙に「インタビューをさせて頂き、本当にありがとうございました」という文字を書いて差し出すと、萩原さんはそれを見てにっこりと笑って「学生さんが取材に来てくれたことは本当に嬉しいです。これは私の宝物にします」と、その画用紙をご自身の保管していた軍道紙と一緒に、大事そうにしまってくれた。諦めないで、軍道紙を取材してよかった・・・。取材に協力してくださった方々への感謝で、胸がいっぱいになった。
その後、先述した日本画家の阿部アヤさんにもインタビューをし、編集を終えて第117回多摩探検隊「消えゆく伝統和紙~軍道紙をたずねて~」は無事に放送されることとなった。思いを一生懸命に伝えれば、応えてくれる人が必ずいる。涙を流して電話をした時の思いは、決して水の泡にはならなかったのだ。

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by tamatanweb | 2014-06-01 00:01

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 フェルトアート作家との出会い   

経済学部公共環境経済学科二年 堀内新

 2014年2月、多摩探検隊『フェルトアート作家~羊毛フェルトに命を込めて~』が放送された。この作品は、フェルトアート作家の中山みどりさんを取り上げたものだ。中山さんは、羊毛フェルトを使って本物そっくりの動物の人形を作っている。今回、私はこの番組制作にディレクターとして関わった。

このプロジェクトの始まりは、偶然HPで中山さんのフェルトアートを見つけたことだった。そこに映っていたのは、まるで生きているかのような犬や猫たち。私は、思い切って中山さんに取材をさせてほしいという主旨のメールを送った。すると、すぐに快諾の連絡がきた。

「こんにちは、中央大学の学生さんですか」。後日、西武国分寺線鷹の台駅前で待っていた私にそう声を掛けてくださったのが中山さんだった。とても上品な方だなと思ったのを覚えている。近くのカフェに入り、フェルトアートについてのお話を伺った。中山さんがフェルトアートと出会ったきっかけ、今、どんな思いで制作しているのかなど一通り質問し終わった後、「これは番組になる」と確信した。

しかし、フェルトアートの撮影交渉は順調にはいかなかった。私が中山さんの自宅で制作工程の撮影をしたいことを伝えると「制作工程の撮影は、自宅ではなくカフェでしてください。ほかの取材や撮影はすべてそこで行っていますから」と断わられてしまったのだ。私はとても悩んだ。「フェルトアートの制作工程が分かればいいのだからカフェでも大丈夫なのではないか」そう考えたこともあった。しかし、悩んだ末に「フェルトアートの制作工程はカフェで撮るわけにはいかない」。そう思って、直接会ってお話する機会を設けて頂いた。

 後日、カフェで中山さんとオレンジジュースを飲みながら話し合った。

「私は、フェルトアート作家としての中山さんを描きたいんです。制作工程は、作り方が分かるだけではなくて、中山さんがいつも作っている場所で作ってもらいたい。そうすることで息遣いや、込める思いを表現したいんです」。2時間にも及ぶ話し合いの末、中山さんのご自宅で撮影をさせていただけることとなった。

その後は、お互いに様々な話をした。撮影とは関係のない、私が大学一年の時、ライフセーバーとして伊豆で働いた事や、中山さんの美術大学時代についての話など。何の変哲もない雑談だったが、中山さんとの距離はぐっと近づいたように感じた。ここでしっかりと中山さんの人柄を知ることができたおかげで、その後の撮影でのコミュニケーションを円滑にとるができた。</br>
8月16日から始まった撮影は、中山さんの多忙なスケジュールの合間を縫って行われた。そして、最後の撮影の日。私たちは中山さんのご自宅に伺った。撮影が終わり、お茶を頂いた時、私たちが中山さんに撮影の依頼をした時の話になった。中山さんは、「撮影の話が来たことを教え子の人たちに話したら、絶対に断ったほうがいいって大反対された。でもね、カフェで一緒に話しをした時、人柄を知って、撮影に協力しようって思ったんだよね。誕生日にはお花もくれたし、細かな気遣いの一つ一つがとてもうれしかった。その誠実さを忘れずにね」と話してくださった。

その言葉に、不器用ながらも必死に取材をし続けた半年間を思い出し、涙があふれた。


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by tamatanweb | 2014-06-01 00:00