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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大韓航空機〇〇七便撃墜事件、被害者遺族の「生の声」を聴いて   

法学部政治学科二年 山田俊輔


 二〇一四年六月一八日、ゼミ活動の一環で、私は貴重な体験をした。

 事の発端は二〇一四年一月半ばの先輩の言葉。「大韓航空機〇〇七便撃墜事件でお姉さんをなくされた遺族の方のお話を聞いて執筆したい者はいませんか」。気がつけば、私はすぐに手を挙げていた。

 大韓航空機〇〇七便撃墜事件。一九八三(昭和五八年)年九月一日、ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行きの大韓航空機〇〇七便が通常の航路を大きく逸脱してソ連領空を侵犯。サハリン上空にてソ連軍機に撃墜された。

 二〇〇九年から私の所属するFLPジャーナリズムプログラム松野良一ゼミでは、同事件の被害者遺族の方にお話を伺い、その証言を記録している。今回、取材を許可していただいた余田唱次さんは、この事件で姉を失った。唱次さんとは、北海道の宗谷岬で行われた慰霊祭でゼミの先輩が出会った。そしてお話を聞くために連絡を取り合っていた。せん越ながら、私はその件を引き継いだ。この行為は先輩の思いを引き継ぐということに等しい。私には大きなプレッシャーであった。

 当初の予定では、二月に取材を行う予定であった。しかし、イベント業を営む唱次さんは予定が読めないほど忙しく、どんどんずれ込んでいってしまった。一か月、二か月、三か月…。私は焦りを感じた。「私の力不足のために、取材が遅れている。このまま駄目になるのではないか」。私はそう不安にならずにはいられなかった。

 取材の日程が決まったのは五月の中頃。「唱次さんのお話がやっと聞ける」、「先輩の企画を潰さないで済む」と私は胸を撫で下ろした。一か月後に控えた取材がとても待ち遠しかった。

 そんな中で行われた今回の取材。記録として残っている書物からは知ることができない「生の声」を私は聞くことができた。和子さんは非常に明るい性格で、誰とでもすぐに打ち解けることができた。小さいころから常に彼女の周りは笑顔で溢れていたという。皆に好かれるような自慢の姉を奪われた唱次さん。その怒りや悲しみがそのまま私の心に流れ込んでくる。そんなインタビューであった。

 「若い人たちがこの事件を知らないことからわかるように、この事件は忘れ去られつつあります。この辛い記憶を自分の子供や孫に正確に伝えていくことは難しいです。だから、君たちのように繋げていく人がいるならば、私は自ら進んで伝えたいと思います」

 唱次さんは、私の取材を受けてくれた経緯を、そう語ってくれた。

 取材を終えると、私は感じたことをそのまま文章にした。「唱次さんの証言と私の率直な感想を装飾せず伝えたい」。その思いから書いた原稿は支離滅裂だった。私は話を聞く中で、事件に対する不信感や怒りなどの感情を抱いてしまった。そのため、冷静で論理的に整理した形でまとめることができてなかったのだ。先輩や先生に提出し何度も何度も修正を受けた。一から書き直すことも一度ではなく、原稿が仕上がった時には、取材を終えてからなんと半年の月日が経っていた。

 原稿がゲラになり、初校を見た時の喜びは、何事にも代えられないものがあった。

 私が執筆したルポルタージュは、『中央評論』冬号No.290(中央大学出版部)に掲載される予定である。今から、その日が待ち遠しくてたまらない。

 私ができることはたかが知れている。「一学生ができること」は、実際に限られている。しかし、逆に「学生だからこそできること」があるのも事実である。

 「相手が学生なら…」。唱次さんは今回の取材を引き受けてくれた理由をそう答えた。

 唱次さんをはじめ、余田さん一家は、マスコミなどプロのジャーナリストからの取材は、一切拒否していた。しかし、学生である私だけが、インタビューを許された。東西冷戦が引き起こした歴史的事件の悲惨さを「つないでいってほしい」という思いからだ。

 私は、学生のうちにしかできないことがあることに気づいた。私達、学生だからこそできることをこれからも探していきたい。


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by tamatanweb | 2015-03-01 00:00

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「飛行機の神様」と出会って   

総合政策学部三年 笹沼麻奈美


 東京都町田市に住む高橋淳さん(92)は、世界最高齢の現役パイロットである。16歳から操縦桿を握り続け、約70年間空を飛び続けてきた。現在でも週に1、2回は飛行機を操縦している。戦前、パイロットを志し、海軍飛行予科練習生に入隊。第二次世界大戦中は、一式陸上攻撃機の操縦士を務め、南方戦線や沖縄攻撃の作戦に参加。戦後は日本飛行連盟に所属しJALやANAのパイロットを養成した。そして、現在は赤十字飛行隊の隊長を務めている。私はこの方の半生を追った番組を制作し、2014年12月に第128回多摩探検隊「飛行機の神様 元一式陸上攻撃機パイロットと空の記憶」として放送した。

 私が高橋さんを知ったのは2013年の敬老の日の読売新聞の記事だ。「日本最高齢のパイロット」が町田市にいると知り、ぜひ高橋さんを取り上げた番組を作りたいと思った。お話を伺いたいという突然の連絡にも関わらず、高橋さんは取材を快諾して下さった。町田市の珈琲店でお話を伺えることになり、2人のゼミ生とともに緊張しながら取材へ向かった。

 駅の改札を出てすぐ、まばらな人の向こうに真っ赤なセーターを着た背の高い方が見えた。髪は白いがすっと伸びた背筋、凛々しい立ち姿に、一目で高橋さんと分かった。厳格そうな雰囲気に最初はたじろいでしまったが、「中央大学の学生さんですか?」と気さくに笑いかけてくださり、印象ががらりと変化したことを覚えている。

 笑顔を絶やさず、時折ユーモアも交えながら話す高橋さんに、次第に緊張もほぐれていった。空の魅力について語る高橋さんはとても楽しそうで、90歳を超えているとは思えないほど若々しかった。途中、戦争の頃の話になると、トーンを少し落としながらも、様々なことを語って下さった。南方戦線で所属していた部隊が壊滅した時の話、沖縄攻撃ではたった一機の部隊となりながらも何度も出撃した話。終戦の一年前から既に敗戦を予感しながらも、戦い続けていたという話。出撃前に不安を漏らしていたり、死を覚悟して遺書をしたためたりした人の多くがその時の出撃で帰らぬ人となると気づき、高橋さんは仲間に、「俺が必ず連れて帰ってきてやるから、遺書はぜったいにかくな」と言っていたという。

 「僕が操縦士だから、僕がヘマをしたら皆死んでしまう。火だるまになったら敵に突っ込んだかもしれないけれど、そうでない限りは絶対に生きて帰って来てやると思っていた。こいつらを殺したくない、と」

 そう語る高橋さんの言葉はとても重く、そして私の心にずしりと響いた。

 取材から戻り、私は高橋さんの戦争体験に焦点を当てた番組作りをしていこうと決めた。しかし、すぐに壁にぶつかってしまった。戦争に関する知識が浅すぎたのだ。ゼミの教授に初めて番組を見せたとき、「論理的裏付けがなく、現代的なチャラい感覚で作っている」と看破された。悔しさで溢れ出そうになる涙をこらえながら、その後必死で勉強した。何度も構成を立て直し、試写を重ね、取材を開始してから約1年後、ようやく放送まで漕ぎ付けた。

 正直、今番組を見返すと、もう少しこうすればよかったかな、という反省点もいくつかある。しかし、今回の番組制作を通して、戦争が人にどのような影響を与えるのか改めて知ることが出来た。また、高橋さんの空や飛行機に対する情熱と謙虚な姿勢に強い感銘を受けた。高橋さんと出会えて本当に良かったと思う。今度、高橋さんにDVDを渡しに行くときが楽しみだ。まず何より、感謝の気持ちを伝えたい。



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by tamatanweb | 2015-03-01 00:00