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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 私が、二回泣いた理由(わけ)   

総合政策学部国際政策文化学科三年 住田達

 私は、福井県の小さな町で泣いた。それも二年連続である。なぜ福井県の小さな町で涙を流したのか。私は、その涙の理由を考えてみることにした。なぜなら、この涙の理由を探ることは、私の大学生活における大切な経験を振り返ることにつながると考えたからである。
私が涙を流した土地は、福井県大飯郡高浜町。再稼働するかどうか注目されている高浜原発がある場所である。東京から遠く離れたこの小さな町に私が行った理由は「若狭たかはま子ども放送局」というプロジェクトがあったからである。このプロジェクトは、FLP松野良一ゼミの学生が現地の子どもたちと共に地域再発見番組を制作するというもので、もう一〇年以上続いている。私は、このプロジェクトに二〇一四年夏と二〇一五年夏と二度参加した。現地で行う活動は全三日間で、夏祭り「漁火想(いさりびそう)」をリポートしてもらい、徹夜で作品を完成させ、最終日には、制作した番組を上映する。子どもの保護者や観光協会の方々、お世話になった宿の方などに見ていただいて批評をいただくというプロジェクトである。私は、その上映会の場において、二年連続で涙を流してしまった。(写真1)
 今振り返ると私の涙には、二つの理由があったように思う。
一つ目は、「プレッシャーからの解放感」である。地理的問題から事前に現地の下見ができなかった。本番数か月前からクルーでの会議や高浜の方々とのメールや電話を繰り返した。特に、二〇一五年はプロデューサーという統括の立場であったため、プロジェクトを無事終えることができるかという不安のほかに、撮影クルーや子どもたちの体調管理など、本番まで様々な不安が積み重なった。上映が終わりプロジェクトが無事に完結した時、安堵感と協力してくれた人々への感謝の気持ちから涙が止めどもなく溢れてしまった。
二つ目は、高浜の人たちの上映後の拍手と感謝の言葉をもらったためである。上映が終わると観光協会の方や保護者の方々から次々と「ありがとう」と言われた。また、リポーターを務めてくれた五人の小学生は、「子ども放送局に参加できてよかった。また、来年、高浜で待ってるで!」と目を潤ませながら言ってくれた。我々大学生のクルーに至らない点は数多くあったと思う。しかし、最終的に地元の方々に喜んでいただけることが、私としては最大の喜びであり、やりがいを感じるものであった。こうした感情が重なり、私は、高浜で涙をこらえることができなかった。(写真2)
 今、過去二年間に制作した番組を見ると様々な感情がよみがえる。子ども放送局がなければ決して行くことがなかった遠く離れた小さな町。決して出会うことがなかった人々。自分が育った環境とは異なる小さな町の夏祭り。そこに集う様々な想いを持った人々と触れ合い、そして、かけがえのない経験をさせてもらった。
 お祭りの実行委員長が、子どもリポーターのインタビューに対してこう言った。(写真3)「この海をずっとずっと守っていきたいと思います。みなさんも大きくなったら協力してね!」
 原発と隣り合わせで生活をしながらも、誰よりも高浜という地を愛し、自分たちの手でその魅力を守っていこうとする彼らの姿は、とても印象的であり、感動的であった。
大学入学時には想像もしていなかったこの二年間の経験は、これからの私に、生きる上での力を与えてくれたものだった。
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by tamatanweb | 2016-01-01 00:00 | 高浜子ども放送局

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 元特攻志願兵の証言―中大OBの記憶を後世に   

経済学部国際経済学科三年 名越大耕

FLP松野良一ゼミは二〇〇七年から戦争を体験した中大OBにインタビューして、その証言を記録する作業を進めてきた。その成果は書籍『戦争を生きた先輩たち』(中大出版部、全二巻)として刊行されている。私は今回、先輩たちを再取材し、映像としてアーカイブ化するプロジェクト・リーダーを担当することになった。
活字だけでなく映像でも証言を残しておきたいと思ったのは、映像は情緒的なデータも保存可能であるからだ。
私がインタビューしたのは京都府舞鶴市に住む元特攻志願兵の神原崙(たかし)さん(九一)。私と神原さんは同じ中央大学の在学生と卒業生ということでしか共通点が無かった。このため、見ず知らずの私を受け入れ、本音を話してくださるのか非常に不安であった。
私は実際に舞鶴市の自宅を訪問した。取材を受け入れて頂けたことにを感謝すると、神原さんは「大学の後輩の為ならば求められたことは全力でする。その代り、君たちも全力で僕の言葉を聞いてくれ」と話された。それを聞いて、私はとても嬉しかった。
神原さんは、特攻隊に志願した理由について、こう語った。
「いづれ招集されて歩兵として南方戦線で突撃命令を受けて玉砕するだろう。であれば、特攻隊に志願して、自分の意志で敵艦に体当たりして潔く死にたいと思った」
厳しい訓練の後、本土決戦の特攻隊要員として、朝鮮半島の温井里飛行場で待機していた。特攻に使う飛行機は、一式千「隼」であった。
しかし、一九四五年八月一五日、終戦。神原さんたちは、軍刀を持って裏山に集合させられた。「皆、てっきり自決するものだと思っていた」という。そこで、隊長がこう語ったという。
「お前たちは元々、学生じゃないか。今から日本の国にとって大事な体や。連合国の捕虜になってでも恥を忍んで、日本を救う道はどうや」
神原さんは、その隊長の言葉を聞いて、生きていくことを決心したという。
取材中、一番印象的であったことがあった。神原さんは終戦までの出来事を淡々と話された後、終戦後の母親との再会の話になった。すると一転して嗚咽された。語られた記憶は、とても鮮明だった。「お袋にこうやって、顔を撫でてもらった。『兄ちゃんかな』と言いながら、お袋が撫でてくれた。もう忘れられないから…」
軍人から一人の子どもに戻られた瞬間だった。七〇年前の出来事をまるで昨日のことのように思い出し、号泣される神原さん。私はその姿を見ながら、特攻を志願しなければならなかった時代の一人の大学生の本当の思いを知ったような気がした。
も、実際に舞鶴市へ足を運び、神原さんから直接お話を伺うことができたからであろう。
取材の最後に、神原さんは、こう強調された。
「私と同じ経験をしてほしくない」
戦争を知らない私が、今後戦争を二度と起こさせないためにできることは、戦争経験者の話を聞き、よく理解し、それを後世に受け継いでいくことだと改めて実感した。今回、貴重な機会を得たことに深く感謝したい。
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by tamatanweb | 2016-01-01 00:00 | 制作日誌