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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 台湾二二八事件は、父を奪い、母を奪い、そして私の尊厳も奪った   

商学部会計学科二年 青山拓冬

 私の所属するFLP松野良一ゼミでは、二〇一一年から台湾二二八事件の受難者家族の方を取材し、記録する活動を行っている。この事件には台湾人だけではなく、日本人も巻き込まれている。今回私は、事件によって亡くなった日本人、仲嵩実(なかたけ みのる)氏の娘・徳田ハツ子さんを取材した。
なぜ仲嵩氏は、日本人であるにも関わらず台湾の事件に巻き込まれてしまったのだろうか。これには、仲嵩氏の住んでいた与那国島の地理と当時の情勢が関係している。戦前、与那国島には、仕事の場が少なかった。そのため島民は、与那国島から船で六時間程度の距離にあった台湾に出稼ぎに出ていた。仕事は、漁業、女中、丁稚(でっち)奉公等であったという。終戦により日本統治を離れた台湾と、与那国島の間に国境が敷かれた。しかし、当時の与那国島民は、国境を無視し、頻繁に台湾との間を往復していた。仲嵩氏自身も戦後、戦前から続けている漁や、戦後に始めた民間引き揚げ船の仕事などで、何度も台湾との間を行き来していた。そうするうちに、事件に巻き込まれてしまったのである。
ハツ子さんはその経緯について、様々な人から得た証言をもとに、概要を語ってくれた。それによると、仲嵩氏は一九四七年二月ごろ、与那国島から台湾へ、民間引き揚げ船の仕事で渡航した。しかし、航路上、もしくは台湾の港で、船を動かすための部品のノズルが故障してしまった。どのように移動したのかは分かっていないが、ノズルの代替品を調達するために台湾の港湾都市である基隆(きーるん)の社寮島(現在の和平島)を目指した。社寮島には戦前から、沖縄島民が多く住んでおり、戦後も琉球村と呼ばれる集落があった。仲嵩氏は社寮島に着いたとき、国民党軍に捕まり、殺されたという。
仲嵩氏が亡くなった後、娘のハツ子さんの人生について、ハツ子さんの娘・當間(とうま)ちえみさん(仲嵩氏の孫)は、二〇一四(平成二六)年四月二五日付の琉球新報で、こうコメントしている。
 「(母の)その後の人生は耐え難いほどの苦労を重ねてきた」
実際にハツ子さんやちえみさん、その関係者に会って話を聞くまで、私はこの「耐え難い程の苦労」という言葉から「父親がいないことの寂しさ」や「大黒柱を失ったことによる経済的な不自由」といったことを想像していた。しかし、取材を進めてみると、事実は想像を超えるものであることが分かった。
まず、ハツ子さんは父親を失ったことを契機に、母テツさんとも別れたという。テツさんは、仲嵩家の親族から「仲嵩実が殺されたのはお前のせいだ!」と責められ続け、家にいられなくなった。まだ幼かったハツ子さんは、母テツさんがなぜ責められているのか分からなかったという。一方で、家を去っていく母を見て、自分は捨てられたと思ったそうだ。ハツ子さんは「(自分を捨てた母に対して)もう、愛情を感じないんです」と語った。
さらにハツ子さんは、母テツさんが自分のもとを去り、親戚に預けられてからのエピソードを語った。親族に強引に結婚相手を決められたこと、親族や教師から何もしていないのに泥棒扱いされたこと、などがあったという。
台湾二二八事件は、ハツ子さんから父親を奪っただけではなく、母親も奪い、そして、ハツ子さん自身の尊厳までも奪ったのだということが分かった。
取材前の私は、過去に先輩方が書いたルポルタージュとの差別化を図るために、台湾二二八事件の資料や与那国島の資料を読み漁った。そして私は一応、台湾二二八事件について理解したつもりで、ハツ子さんがいる沖縄へと飛んだ。
しかし、取材を進めるに従って、資料だけでは分からない事実がたくさん判明してきた。特に、受難者本人のみならず、その家族も様々な混乱と苦労に巻き込まれ、これまで苦しみ続けてきたということを知った。
日本統治が終了した台湾で何が起きたのか。そして、台湾二二八事件に巻き込まれた日本人がいたこと、その受難者家族が、その後どれだけ辛い人生を送ってきたのか。私は、ハツ子さんたちの貴重な証言を含め、記録を書き続け、後世につないでいきたいと考えている。
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by tamatanweb | 2016-03-01 00:00 | その他

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「八王子空襲」の謎に迫った一年間   

総合政策学部政策科学科三年 平木場大器

 私は、番組「八王子空襲の謎」のディレクターを務めた。放送にこぎつけるまで、実に、一年間の制作期間を要した。謎の解明に、予想以上の労力と時間がかかったためだ。
そもそも、八王子空襲について調査しようと思ったきっかけは、2014年8月に放送された多摩探検隊「八王子空襲~5人の証言~」(10分)を上映会用に編集するために、何度も視聴したことだ。1945年8月2日未明に起きた同空襲は、米軍によって事前に予告されていた。それにもかかわらず、被害は、死者約450人、負傷者2000人以上に及んだ。なぜ、予告されていたのに、これだけの死傷者が出たのだろうか。疑問に思った私は、いろいろ書籍、報告書を調べたほか、関係者数人に聞き取り調査を行った。その結果、2つの事実にたどりついた。
1つ目は、ラジオ放送の錯覚だ。1945年8月1日午後8時55分に空襲警報が発令された。その後ラジオ放送で、「米軍は川崎や鶴見を攻撃している」との情報が入り、市民は、空襲警報が解除されたと思い込み、避難していた人は家に戻り、空襲に遭った。しかし調査によると、実際に空襲警報が解除されたのは、空襲終了後の翌8月2日午前2時46分だった。なぜ市民は、「空襲警報が解除された」「八王子は来ない」と思ったのか。八王子空襲を長年研究している東大和南高校の齋藤勉教諭は私のインタビューにこう答えた。
「当時、空襲警報が鳴っても、B29が飛来してこない事が何度もあり、市民は空襲警報に慣れてしまった。そうした状況に置かれていた市民は、ラジオ放送を聞いて『今日は来ない』と自主的判断で帰宅したのだと思う」
もう1つは、「防空法」という法律の存在だ。「防空法」とは、空襲時に「退去の禁止」や「消火の義務」を国民に課した法律だ。もし従わなければ、「非国民」という言い方で社会的制裁が待っていた。当時の人たちは「非国民」と呼ばれたら行く所がなく、死ぬしかなかったのだ。
しかし、防空法に関する取材を続ける中で、八王子空襲の17日前に、空襲警報が鳴り市外に避難しようとする市民とそれを阻止しようとする警防団員との小競り合いがあったと報じた新聞記事を見つけた。
私は空襲当日にも同じことがあったのではないのかと思い、目撃者探しに奔走した。しかし、中々見つからなかった。空襲当時にも小競り合いがあったかどうかは曖昧で、八王子空襲の研究者からも目撃証言を得られていなかったのだ。防空法に詳しい早稲田大学の水島朝穂教授からの回答も「八王子空襲と防空法についてはわからない。ましてや、逃げる市民と警防団の小競り合いという証言も聞いたことがない」というものだった。
そこで私は、八王子空襲を記録する会や郷土史家に連絡を取り、空襲被害者を探した。空襲被害者を見つけては、逃げる市民と警防団も小競り合いがあったかどうかを確認する作業を繰り返した。
探し始めて約2ヶ月後、目撃者である尾俣重利(おまた しげとし)さん(85歳、当時14歳)を見つけることができた。尾俣さんは、「空襲のことを思い出すのは辛く、今でも夢に出てくる」と取材を断られた。しかし私は、どうしても尾俣さんの証言をとりたい、尾俣さんしか証言できないと電話で訴えた。「これで私が証言するのは、最後になると思う」と取材を了承してくれた。
尾俣さんは、次のように説明した。
「空襲が始まってすぐに避難をし始めた。浅川橋を渡ろうとしたが、群衆で前に進むことができなかったその時、警防団員から『逃げるな!火を消せ!』と言われた。しかし、焼夷弾の火はバケツリレーで消せるようなものではなかった。警防団員は『殺すぞ!』と舞い上がっていたが、その後、住民の勢いに押され、その場からいなくなった。それで橋を渡り、助かった」
当時は、消火活動をしなかったら「非国民」と呼ばれる時代だったにもかかわらず、どうして避難をしたのか。私は尾俣さんに再度尋ねた。すると尾俣さんは、「いくら法律だからって死んでもいいってことじゃない。やっぱ生きるってのは一番前提ですからね」と語った。
 尾俣さんのように、警防団の制止を振り切り、助かった人はたくさんいた。しかしそれでも、死者約450人、負傷者は2000人以上という被害が出た。空襲被害の背景に、「敵前逃亡は市民でも許さない」という防空法の存在があったことを、今回の調査を通して、実感できたような気がした。
映像作品は、主に八王子空襲のことを取り上げた。このほかに、私は1年を通して、青森、東京、大阪、鹿児島の空襲被害者の方々からお話を聞いた。多くの人が、涙を流しながら、空襲当日のことを語ってくれた。その姿を見て、戦争においては、非戦闘員である一般市民も多くが犠牲になること。「非国民」と呼ばれることを恐れて、一般市民は防空法という非人道的な法律に従い、多くの死傷者を出したことがわかった。
私は、証言してくれた高齢者の言葉を受け継ぎ、平和で民主的な社会を築いていきたいと強く思った。
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by tamatanweb | 2016-03-01 00:00 | 制作日誌