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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「対馬丸」生存者の記憶-中央大学という絆-   

 総合政策学部国際政策文化学科三年 馬田翔永

 疎開船「対馬丸」と中大OB
 太平洋戦争中の1944年8月22日、鹿児島県悪石島近海にて一隻の疎開船が、米軍の潜水艦が放った魚雷によって沈没した。船の名前は「対馬丸」。戦況が悪化し沖縄攻撃も近いということで、同船は多くの子ども達を乗せ、沖縄から九州へと向かう途中だった。1788名の乗船者のうち、1484名が犠牲となった。その中には834名の児童が乗船していたが、生き残ったのはわずか59名のみだった。
平和な時代を生きる私にとって、約800名もの罪なき子ども達の命が奪われたこの事件は、大変衝撃的だった。私は興味を抱き、この事件を調べていると、一人の男性の名前を見つけた。仲田清一郎さん(80)。当時8才で「対馬丸」に乗船し、生き残った方である。そして何より目をひかれたのは、仲田さんが中央大学の卒業生であるということだった。
 私が所属するFLP松野良一ゼミでは、戦後70年を迎えた昨年、「中央大学と戦争」映像アーカイブ化プロジェクトをスタートさせた。戦争を経験した中央大学卒業生の方々にお話を伺い、その証言を基にドキュメンタリー番組を制作するというプロジェクトである。当然ではあるが、私は今までの20年間の人生において、戦争とは無縁に生きてきた。祖父母などからそういった話を聞くこともなかった。そんな私だったが、どうしても仲田さんからお話を伺いたいと思った。そして、戦争の現実を知り、自分なりに向き合いたいと思った。

 生々しい証言
 2015年8月24日。私は仲田さんと連絡を取り、インタビュー撮影のため、ご自宅を訪問した。緊張していた私を、仲田さんは大学の後輩として暖かく迎えて下さった。しかし、話が事件の事に及ぶにつれ、表情は固くなっていった。そして、絞り出すようにして当時の記憶を語って下さった。
 魚雷が命中し、仲田さんたちは海へと放り出された。辺り一面は、子供たちの「おかあさーん」「せんせーい」と呼ぶ声で包まれていた。しかし、その声は次第に聞こえなくなっていったという。一人で乗船していた仲田さんは、こう語る。
 「私はまだ8歳の小学生でしたけどね、自分は一人で来てよかったなぁって思いました。だって、兄や姉がいっしょだったら探さなければならないでしょ。だから、ああ、自分は一人で来て良かったなぁって思ったね…」
 目の前で何人もの人々が次々と沈んでいった。当時の友人は全員亡くなった。
 漂流二日目、仲田さんは運良く近くを通った漁船に助けられ、一命を取りとめる。しかし、多くの死を目の前で体験した心の傷から、仲田さんは助かった後も、しばらくは喜怒哀楽の感情を完全に失くしていたという。また、そういったトラウマや、「なんで自分は生き残ったんだろう」という負い目から、70年以上が経った今でも事件の体験を話す事は滅多にないとの事だった。
 私は率直に「では、なぜ今回の取材を受けて下さったのですか」と聞いた。すると仲田さんは、こう話した。
 「中央大学の後輩の頼みなら、断るわけにはいきませんよ」

 沖縄、そしてハワイに
 私は取材後に、実際に「対馬丸」の航跡をたどるために、沖縄から九州へと向かうフェリーに乗る事を決めた。2015年9月9日午後10時。対馬丸が沈没したとされるその時刻に、私は甲板に出た。真っ暗闇。このような夜の海に仲田さんを始めとする子供たちは放り出されたのだ。どれだけ怖かったか、どれだけ心細かったか。私は漆黒の海を見つめたまま、しばらくその場を動くことが出来なかった。
この体験を報告するために、私はもう一度仲田さんのお宅を訪ねた。仲田さんは、私の話を聞いてくださった後、「馬田さんに、これを持っていて欲しい」と大学時代に使っていたという一眼レフのカメラをくださった。私は、仲田さんから大学の後輩として認められたような気がして、本当に嬉しかった。そして「これからの人生、色々な世界を見ていって下さい」とも。
私はその後、「対馬丸」を沈没させた米軍の潜水艦・ボーフィン号が、ハワイに現存している事を知った。2016年3月、私は現地を訪ねた。学芸員のCharls R. Hinmanさんの協力で、ボーフィン号内部まで案内してもらった。ほぼ全ての設備が当時のままとなっており、実際に「対馬丸」へ魚雷を放った発射管や発射ボタンも残っていた。
 内部を案内して貰った後、Hinmanさんを通してアメリカの視点から見た対馬丸事件を知る事が出来た。ボーフィン号がアメリカ国内では「Revenger of Pearl harbor」として英雄視されていること。ボーフィン号の乗組員たちが対馬丸事件の真相を知ったのは事件から35年以上も後であること。乗組員たちは真相を知った時、とても大きなショックを受けたこと。しかし、Hinman さんは、続けた。「彼らは自らの行動を後悔する事はなかったのではないか。それが戦争というものだったから」と。
 今まで、私にとっての戦争とは、ただの教科書の中の知識であった。しかし、今回の一連の取材を通して、戦争の悲しみや苦しみを実感として受け止める事が少しばかり出来るようになったような気がする。また、日本側の視点だけでなくアメリカ側の視点を通す事によって、戦争の本質というものが以前よりも理解が深まったように思う。
 さらに、興味のあることや追求したいと思ったことには躊躇せず飛び込む事が大事だと学んだ。そうすることで今まで見えてこなかった世界が見えてきたからだ。仲田さんから頂いた言葉の通り、これからも「色々な世界を見続けていきたい」と思う。

# by tamatanweb | 2016-05-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「八王子空襲」の謎に迫った一年間   

総合政策学部政策科学科三年 平木場大器

 私は、番組「八王子空襲の謎」のディレクターを務めた。放送にこぎつけるまで、実に、一年間の制作期間を要した。謎の解明に、予想以上の労力と時間がかかったためだ。
そもそも、八王子空襲について調査しようと思ったきっかけは、2014年8月に放送された多摩探検隊「八王子空襲~5人の証言~」(10分)を上映会用に編集するために、何度も視聴したことだ。1945年8月2日未明に起きた同空襲は、米軍によって事前に予告されていた。それにもかかわらず、被害は、死者約450人、負傷者2000人以上に及んだ。なぜ、予告されていたのに、これだけの死傷者が出たのだろうか。疑問に思った私は、いろいろ書籍、報告書を調べたほか、関係者数人に聞き取り調査を行った。その結果、2つの事実にたどりついた。
1つ目は、ラジオ放送の錯覚だ。1945年8月1日午後8時55分に空襲警報が発令された。その後ラジオ放送で、「米軍は川崎や鶴見を攻撃している」との情報が入り、市民は、空襲警報が解除されたと思い込み、避難していた人は家に戻り、空襲に遭った。しかし調査によると、実際に空襲警報が解除されたのは、空襲終了後の翌8月2日午前2時46分だった。なぜ市民は、「空襲警報が解除された」「八王子は来ない」と思ったのか。八王子空襲を長年研究している東大和南高校の齋藤勉教諭は私のインタビューにこう答えた。
「当時、空襲警報が鳴っても、B29が飛来してこない事が何度もあり、市民は空襲警報に慣れてしまった。そうした状況に置かれていた市民は、ラジオ放送を聞いて『今日は来ない』と自主的判断で帰宅したのだと思う」
もう1つは、「防空法」という法律の存在だ。「防空法」とは、空襲時に「退去の禁止」や「消火の義務」を国民に課した法律だ。もし従わなければ、「非国民」という言い方で社会的制裁が待っていた。当時の人たちは「非国民」と呼ばれたら行く所がなく、死ぬしかなかったのだ。
しかし、防空法に関する取材を続ける中で、八王子空襲の17日前に、空襲警報が鳴り市外に避難しようとする市民とそれを阻止しようとする警防団員との小競り合いがあったと報じた新聞記事を見つけた。
私は空襲当日にも同じことがあったのではないのかと思い、目撃者探しに奔走した。しかし、中々見つからなかった。空襲当時にも小競り合いがあったかどうかは曖昧で、八王子空襲の研究者からも目撃証言を得られていなかったのだ。防空法に詳しい早稲田大学の水島朝穂教授からの回答も「八王子空襲と防空法についてはわからない。ましてや、逃げる市民と警防団の小競り合いという証言も聞いたことがない」というものだった。
そこで私は、八王子空襲を記録する会や郷土史家に連絡を取り、空襲被害者を探した。空襲被害者を見つけては、逃げる市民と警防団も小競り合いがあったかどうかを確認する作業を繰り返した。
探し始めて約2ヶ月後、目撃者である尾俣重利(おまた しげとし)さん(85歳、当時14歳)を見つけることができた。尾俣さんは、「空襲のことを思い出すのは辛く、今でも夢に出てくる」と取材を断られた。しかし私は、どうしても尾俣さんの証言をとりたい、尾俣さんしか証言できないと電話で訴えた。「これで私が証言するのは、最後になると思う」と取材を了承してくれた。
尾俣さんは、次のように説明した。
「空襲が始まってすぐに避難をし始めた。浅川橋を渡ろうとしたが、群衆で前に進むことができなかったその時、警防団員から『逃げるな!火を消せ!』と言われた。しかし、焼夷弾の火はバケツリレーで消せるようなものではなかった。警防団員は『殺すぞ!』と舞い上がっていたが、その後、住民の勢いに押され、その場からいなくなった。それで橋を渡り、助かった」
当時は、消火活動をしなかったら「非国民」と呼ばれる時代だったにもかかわらず、どうして避難をしたのか。私は尾俣さんに再度尋ねた。すると尾俣さんは、「いくら法律だからって死んでもいいってことじゃない。やっぱ生きるってのは一番前提ですからね」と語った。
 尾俣さんのように、警防団の制止を振り切り、助かった人はたくさんいた。しかしそれでも、死者約450人、負傷者は2000人以上という被害が出た。空襲被害の背景に、「敵前逃亡は市民でも許さない」という防空法の存在があったことを、今回の調査を通して、実感できたような気がした。
映像作品は、主に八王子空襲のことを取り上げた。このほかに、私は1年を通して、青森、東京、大阪、鹿児島の空襲被害者の方々からお話を聞いた。多くの人が、涙を流しながら、空襲当日のことを語ってくれた。その姿を見て、戦争においては、非戦闘員である一般市民も多くが犠牲になること。「非国民」と呼ばれることを恐れて、一般市民は防空法という非人道的な法律に従い、多くの死傷者を出したことがわかった。
私は、証言してくれた高齢者の言葉を受け継ぎ、平和で民主的な社会を築いていきたいと強く思った。

# by tamatanweb | 2016-03-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 台湾二二八事件は、父を奪い、母を奪い、そして私の尊厳も奪った   

商学部会計学科二年 青山拓冬

 私の所属するFLP松野良一ゼミでは、二〇一一年から台湾二二八事件の受難者家族の方を取材し、記録する活動を行っている。この事件には台湾人だけではなく、日本人も巻き込まれている。今回私は、事件によって亡くなった日本人、仲嵩実(なかたけ みのる)氏の娘・徳田ハツ子さんを取材した。
なぜ仲嵩氏は、日本人であるにも関わらず台湾の事件に巻き込まれてしまったのだろうか。これには、仲嵩氏の住んでいた与那国島の地理と当時の情勢が関係している。戦前、与那国島には、仕事の場が少なかった。そのため島民は、与那国島から船で六時間程度の距離にあった台湾に出稼ぎに出ていた。仕事は、漁業、女中、丁稚(でっち)奉公等であったという。終戦により日本統治を離れた台湾と、与那国島の間に国境が敷かれた。しかし、当時の与那国島民は、国境を無視し、頻繁に台湾との間を往復していた。仲嵩氏自身も戦後、戦前から続けている漁や、戦後に始めた民間引き揚げ船の仕事などで、何度も台湾との間を行き来していた。そうするうちに、事件に巻き込まれてしまったのである。
ハツ子さんはその経緯について、様々な人から得た証言をもとに、概要を語ってくれた。それによると、仲嵩氏は一九四七年二月ごろ、与那国島から台湾へ、民間引き揚げ船の仕事で渡航した。しかし、航路上、もしくは台湾の港で、船を動かすための部品のノズルが故障してしまった。どのように移動したのかは分かっていないが、ノズルの代替品を調達するために台湾の港湾都市である基隆(きーるん)の社寮島(現在の和平島)を目指した。社寮島には戦前から、沖縄島民が多く住んでおり、戦後も琉球村と呼ばれる集落があった。仲嵩氏は社寮島に着いたとき、国民党軍に捕まり、殺されたという。
仲嵩氏が亡くなった後、娘のハツ子さんの人生について、ハツ子さんの娘・當間(とうま)ちえみさん(仲嵩氏の孫)は、二〇一四(平成二六)年四月二五日付の琉球新報で、こうコメントしている。
 「(母の)その後の人生は耐え難いほどの苦労を重ねてきた」
実際にハツ子さんやちえみさん、その関係者に会って話を聞くまで、私はこの「耐え難い程の苦労」という言葉から「父親がいないことの寂しさ」や「大黒柱を失ったことによる経済的な不自由」といったことを想像していた。しかし、取材を進めてみると、事実は想像を超えるものであることが分かった。
まず、ハツ子さんは父親を失ったことを契機に、母テツさんとも別れたという。テツさんは、仲嵩家の親族から「仲嵩実が殺されたのはお前のせいだ!」と責められ続け、家にいられなくなった。まだ幼かったハツ子さんは、母テツさんがなぜ責められているのか分からなかったという。一方で、家を去っていく母を見て、自分は捨てられたと思ったそうだ。ハツ子さんは「(自分を捨てた母に対して)もう、愛情を感じないんです」と語った。
さらにハツ子さんは、母テツさんが自分のもとを去り、親戚に預けられてからのエピソードを語った。親族に強引に結婚相手を決められたこと、親族や教師から何もしていないのに泥棒扱いされたこと、などがあったという。
台湾二二八事件は、ハツ子さんから父親を奪っただけではなく、母親も奪い、そして、ハツ子さん自身の尊厳までも奪ったのだということが分かった。
取材前の私は、過去に先輩方が書いたルポルタージュとの差別化を図るために、台湾二二八事件の資料や与那国島の資料を読み漁った。そして私は一応、台湾二二八事件について理解したつもりで、ハツ子さんがいる沖縄へと飛んだ。
しかし、取材を進めるに従って、資料だけでは分からない事実がたくさん判明してきた。特に、受難者本人のみならず、その家族も様々な混乱と苦労に巻き込まれ、これまで苦しみ続けてきたということを知った。
日本統治が終了した台湾で何が起きたのか。そして、台湾二二八事件に巻き込まれた日本人がいたこと、その受難者家族が、その後どれだけ辛い人生を送ってきたのか。私は、ハツ子さんたちの貴重な証言を含め、記録を書き続け、後世につないでいきたいと考えている。

# by tamatanweb | 2016-03-01 00:00 | その他

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 異国の地で思いを日本に伝える仲介役として   

総合政策学部国際政策文化学科二年 和田ユリ花

 昨年は、戦後七十年という節目の年であった。私は、これを戦争について知るきっかけにと、当時中学生だった女学生が製造に従事していた、「風船爆弾」という兵器について明らかにすることにした。私と同じ女性として、過酷な労働環境の中で兵器を製造させられていた彼女たちや、その兵器について興味を持ったからである。
 風船爆弾とは、太平洋戦争末期、日本により秘密裡(ひみつり)に研究・開発された対米国の戦争兵器である。風船爆弾についての証拠資料は、戦後の隠ぺい工作によってほとんどが焼却処分され、現在ではほとんど残っていない。そこで風船爆弾について知るため、製造体験者である元女学生たちへの取材を行った。他言無用の兵器製造に従事していた彼女たちの心の葛藤、また「戦争の記憶が風化していく前に、戦争の愚かさを若い世代に伝えていかなければならない」という強い思いを、証言として記録することができた。さらに取材を進めるうちに、スミソニアン国立航空宇宙博物館代表学芸員であるトム・クローチさんという、世界でも数少ない風船爆弾の専門家の存在を知った。米国から見た風船爆弾について話を伺うため、昨年の夏、私はワシントンD.C.へ向かった。
 私は、中学から高校にかけての三年間を米国で過ごした経験があるため、ワシントンD.C.でインタビュアーを務めた。しかし、英語でのインタビューの経験などない上に、中学時代からの英語に対する苦手意識が未だに払拭できていなかった。ワシントン・ダレス空港に向かう飛行機の中で、日本語で作成した質問事項を英語に訳しながら、私は漠然とした不安に駆られていた。ワシントンD.C.到着からも、収録当日まで、インタビューのことで頭がいっぱいだった。
 収録当日は、文字通り、雲一つない快晴だった。私は、スティーブン・F.・ユードバー・ハジーセンターへと向かった。
到着してすぐ、広報員の方が館内を案内してくださり、トムさんとの待ち合わせ場所まで連れて行ってくださった。そこは、風船爆弾の現物が展示されているショーケースの前だった。
 トムさんと無事に対面した後、さっそく撮影が始まった。しかし、初めての海外撮影だったため、私も同行してくださった先輩もあわててしまい、なかなか上手に撮影を進められなかった。トムさんがアメリカ人として、風船爆弾をどのように考えているかなどという、踏み込んだ質問をしていけなかった。私の声が小さく、震えてしまったため、トムさんに何度も聞き返されてしまい、それが余計に自分を追い込むことになってしまった。
 しかし、トムさんの方から、私が今まで調べてきたときには全く出てこなかった、新しい事実を語ってくださった。初めて聞く話はとても興味深く、もっと知りたいと強く思った。そのとき私は、こんな貴重な機会に聞けることを全部聞いて帰らなければ、ここに来た意味がないと気づいた。それから私は、準備していた質問以外にも気になったことがあれば、全て伺った。トムさんのアメリカ人としての風船爆弾への意見なども聞くことができた。その時には声もはっきりと出るようになったのか、トムさんから聞き返されることも減った気がした。そして、トムさんは最後にこうおっしゃった。
 「私たちが第二次世界大戦終戦の記憶について考えることが、これからの世界平和を促進していくはずだよ」
 今回のような国外での取材では、国内での取材よりも限られた時間で、どれだけ貴重な話を伺えるかが重要だった。トムさんへの取材は、新たな証言の記録となった以外にも、取材する際の心構えを私が痛感するきっかけにもなった。言葉の壁がある中でも、同じ事柄への興味を共有することにより、心の距離は縮まり、たくさんの貴重な話を伺えることを知ることができた。この先、ほかにも取材を経験することになる。そのたびに、今回の経験のことを思い出すだろう。
 異国の地での思いを日本に持ち帰るという重要な役割を担ったことにより、私自身も一回り成長できた。この転機を、私は忘れることはない。

# by tamatanweb | 2016-02-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 動物の義肢装具士 ―日本初の挑戦―を制作して   

総合政策学部国際政策文化学科三年 鈴木里咲

 私は、日本で初めて動物専門の義肢装具士として、活躍されている島田旭緒さんに密着したドキュメンタリー番組を制作した。
 3月12日、初めて島田さんへの取材を行った。2007年に動物専門の義肢装具を製作する会社を立ち上げた島田さんは、現在様々なところで注目されている。動物病院から依頼を受けると、自ら採寸し、手作業で義肢装具を製作し、ちゃんと患部とあっているか自ら赴き確認する。島田さんが装具を製作している様子を見学しただけで、番組が出来上がった時の自分が想像できた。それぐらいやりがいのある企画になると思った。(写真1)
そこから、構成を考えていった。動物は、映像的に、人を惹きつける力があるという。事故や病気によって怪我をしたペットが、動物病院に運ばれる。そこで出来る限りの手術をされるが、後遺症が残ってしまう。これ以上なすすべのないペットが、島田さんの義肢装具をつけることで、歩けるようになる。これが、私の最初に考えた構成である。この最初の構成を基に撮影を行っていった。
朝、島田さんと合流し、一日の仕事を追っていく。この撮影を7回おこなった。そして、撮影を通じ6組の飼い主に会った。私は動物を飼っていないが、こんなにも様々な種類の動物がいて、それぞれの大きさも違い、そしていろんな症例があることに驚いた。島田さんはその一つ一つと向き合っていた。(写真2)
 撮影を続ける中で、60代くらいの夫婦に出会った。知的な、寡黙そうな男性が、大切そうに抱える腕の中には小さなチワワがいた。ココちゃんという名前のその犬は、高齢で、いままでも沢山の病気をしてきたのだという。前足はその後遺症で左だけ曲がっていた。「散歩が好きだったからね。前みたいにあるければね」
静かに男性は言った。次の日、島田さんは前足を固定し、歩くサポートをする装具を製作した。初めて装具を着ける日が来た。心配そうに見つめる夫婦の前で、ココちゃんは元気よく歩き始めた。飼い主さんに向かって元気よく歩くココちゃんを、腕を広げて待っていたその男性の目は、とてもうれしそうに微笑んでいた。そして、島田さんに「ありがとうございます」と丁寧にお礼を言っていた。(写真3)
 その後もいくつかの症例を撮影した。しかし、撮影を続けていくうちに、私は最初の構成に、違和感を覚えるようになっていた。番組のラストが決まらないのだ。歩けなかったペットが歩けるようになって、終わりではない気がしていた。ある日、島田さんは「時代の流れによって、ここまで需要が出てきたのだと思う」と言っていた。時代の流れとはなんだろう。なぜ、いま動物のための義肢装具が必要とされているのか。そこから、日本のペット事情について調べて行った。調べるなかでこのようなデータを見つけた。「子供の数より、ペット(犬・猫)の数のほうがはるかに多い」。私にとっては、それは驚きのデータだった。そして、ペットに向けたサービスが、多様化していることも分かった。ペットのサロン、幼稚園、厄払い…島田さんの言う時代の流れとは、このことだと思った。そして、構成にこういったデータを盛り込むことにした。また島田さんの仕事はただ淡々と描き、視聴者に問いかける構成にすることにした。
 私が所属するゼミの松野良一教授に、初めて番組を見ていただく日がやってきた。一通り番組を見た先生は、こうおっしゃった。「想像していた描き方とは違うけれど、淡々と描くことで、とても上手くまとまっている」。伝えたかったことが、初めて番組を通じ伝わった瞬間だった。
 先日、番組で取り上げさせて頂いたチワワのココちゃんの飼い主さんから、電話をいただいた。「この間はありがとう。実はココちゃんが亡くなったんです。」
丁度、私は就職活動にむけたセミナーに出席しているときだった。すぐには返事が出来なかった。「まだ、亡くなってすぐで、悲しくて、番組見れていないの。ごめんなさいね」
前回会ったときには、装具をつけ、元気に歩けるようになっていたと思うと、とてもつらかった。私はDVDを届ける約束をした。
 この番組で私は多くの事を学んだ。それは、大学生の映像制作にすぎないのかもしれない。けれど、その番組には必死に生きる動物の姿、ペットに愛情を注ぐ飼い主の姿、そして新たな動物医療の開拓をし続ける島田さんの姿がある。2年間続けてきたゼミでの番組制作。ようやく、観てもらいたい、知ってもらいたい、考えてもらいたと思える番組が制作できた気がする。

# by tamatanweb | 2016-02-01 00:00 | 制作日誌