無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「青い目の人形」と戦争   

法学部法律学科三年 大関宏紀

 今から八八年前、一九二七年に海を渡って日本にやってきた「青い目の人形」をご存知だろうか。米国で排日移民法が施行された後、日米関係の悪化を懸念した米国人牧師シドニー・ルイス・ギューリック氏が、日本全国の幼稚園、小学校に一万体以上の西洋人形を寄贈したのである。これらの「青い目の人形」は、日本中の子どもたちに熱烈に歓迎された。しかし、人形のほとんどは、太平洋戦争中に、敵国の象徴、憎しみの対象として扱われ、破壊されてしまった。現存する人形は全国わずか三〇〇体ほど、三%にも満たないとされている。戦後七〇年にあたる今年、私は、戦争という危機を乗り越えて現存する「青い目の人形」に込められた思いを追うドキュメンタリーの制作に携わった。作品は、今年八月に「第一三六回 多摩探検隊」として放映された。

 八王子市立第八小学校には「メアリー」、檜原村立檜原小学校には「パティ」と名付けられた「青い目の人形」が残っている。現存するこれらの人形を初めて見たとき、私には九〇年も昔に贈られた人形だとは思えなかった。目立った損傷もなく、二体の人形とも、横に寝かせると目を閉じる機能までも生きていたからだ。良好な状態で残されているこれらの人形もまた、ほかの「青い目の人形」と同様に、戦時中は敵国の人形として破壊される危機にさらされ続けた。

 「青い目の人形」が破壊された様子を覚えている方もいた。東京都日の出町在住の清水浩さん(八〇)は、国民学校三年生の時に「青い目の人形」を強制的に踏みつけさせられた経験を語ってくれた。黒板には、「憎い憎いアメリカ人」と、連合艦隊司令官長官・山本五十六の仇討ちを意味する文章が書かれていたそうだ。「変なことをしてしまったという思いと、踏んだ時のいやな感触が今でも忘れられない」と話す。

 そうした中で、多摩に残る二体は、「人形に罪はない」と考えた当時の小学校の教諭、児童による勇気ある行動によって守られた歴史を持つ。檜原小学校の吉野一巳校長先生は、当時の教頭先生の勇気ある決断と現在まで保存されてきた人形「パティ」について、「檜原小学校の誇り」と語る。また、「メアリー」が残る八王子市立第八小学校では、青い目の人形が守られた経緯を演劇にして、児童たちが演じることで、後世に伝えていく努力が続けられている。

 今回の多摩探検隊の撮影は、米国メリーランド州への海外ロケも敢行した。そして、分かったことが一つあった。「青い目の人形」が日本に贈られてからの九〇年間に、様々な国籍と世代の人々が関わってきたが、彼らの心の根底にあったものは「平和への思い」だった。私は、この思いを伝え、戦争、平和について考えてもらうきっかけになるような作品を制作したい。これが、私の本番組の制作意図だった。

 番組の構成表ができたのは三月、そこから先輩方の仕事を引き継ぐかたちで編集作業を重ねた。番組が完成したのは七月下旬だった。完成した番組は戦後七〇年を迎える八月に、多摩地域を中心にケーブルテレビ一九局で放送していただいた。放送圏内にある日野市で一人暮らしをしている私も、自宅でリアルタイムで組を視聴することができた。自分が編集した番組がテレビに映るのは、なんだか気恥ずかしいものだった。

 終戦から七〇年が経ち、戦争の記憶が薄れゆく今、この番組が、戦争や平和を考えるきっかけになってくれれば、それほど嬉しいことはない。


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# by tamatanweb | 2015-11-01 00:00

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 演出と編集の難しさ、そして感動を知った「清瀬子ども放送局」   

総合政策学部政策学科二年 大塚脩平

 今回、私はFLP松野ゼミの「清瀬子ども放送局」のディレクターを務めた。「清瀬子ども放送局」とは、清瀬ジュニアリーダーズクラブ(以下JLC)という清瀬市が運営する小・中学生育成団体と松野ゼミが定期的に制作している番組だ。この活動が私のゼミ活動の第一歩となった。

 今回の企画は、「野菜収穫とうどん作り体験」。都内有数の生産量を誇る清瀬の「野菜」と小麦栽培が盛んだったことから郷土料理として親しまれている「うどん」の2つを組み合わせた企画である。JLCの子ども達二十一人が、野菜を収穫し、うどんを作って、最後は「野菜のカテ入りうどん」を食べるという内容。この体験活動の様子を子どもたちがリポートし、番組を作ることが目的であった。スケジュールは朝から夕方まで分刻みだったが、1時間毎に休憩を取るなど子どもたちの体調に配慮しなければならない。そのため最初から、予定の時間通りにいくだろうかと不安で一杯だった。

 五月二十四日、ロケ当日。撮影がスタートすると、容赦なく時間が進んだ。私はディレクターとして子どもたちの演出をしなければいけない。開始早々から彼らにどう演出をすればいいのかわからず混乱した。当初の予定では撮影の都合上2グループに分かれ体験を行うはずが、子どもたちは皆いっしょにやりたがった。そのため、予定を変更して野菜収穫は子どもたち全員で行うことに。私は想定外の展開に混乱し、思うように演出できなかった。最終的に、子どもたちは活動を楽しんでくれたので、企画を立てた身として嬉しかった。しかし、撮れた映像が番組の素材として使えるのかどうか不安でならなかった。

 撮影した映像を見ると、やはり演出が不十分な所が多々あった。そのため、番組というパッケージにするには大変苦労した。それでも何とか一生懸命編集した。しかし、完成した映像を先生に見せたところ、「誰のための映像だ」と言われた。一番大切なのは、参加してくれた子どもたちのため、そして視聴者のために作るということに気付かされた。私の作った映像は自己中心的、自己満足的な映像であった。先生の言葉から初心に帰り、映像を再編集した。完成した映像を再度見てもらったところ、先生から「かなり改善された」と言って頂けた。その後、微調整を繰り返し作品は完成した。

 そして迎えた六月二十七日。作品を子どもたちの前で上映する日がやってきた。子ども達の反応が不安で、映像が再生されるまで笑顔が引きつっていた。でも、上映が始まると子どもたちの笑い声や歓声が上映ホールに響いた。その瞬間、目頭が熱くなった。苦労が沢山あった分、言葉に表せない感動があった。

 今回の活動を通して、多くの反省があった。一方で、演出方法、編集方法など、学びは沢山あった。そして、何よりも映像を編集していく途中で、子どもが本来持っている純朴さや面白さにも気づくことができた。撮影時に演出を十分にできず、事前の打ち合わせどおりにはいかなった。けれども、子どもたちはそれぞれの持ち味をカメラの中で存分に発揮してくれた。自然な姿を撮影できたことで、映像のリアルさが増しより面白くなった。私は子どもたちに助けられていたのだと思う。

 プロジェクトが立ち上って、事前打ち合わせ活動、撮影、上映会まで、4ヶ月間。振り返ってみれば予定通りにいったことなんてほとんどなかった。逆に、予定通りに物事が進んでいたら子どもたちの魅力には気付けなかったかもしれない。一見失敗だと思ったことも成功に変わる可能性を持っている。苦境の中で解決策を見つけることで、私は成長できたように思う。これからもゼミ活動を通して、より一層成長し続けたい。


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# by tamatanweb | 2015-10-01 00:00

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 柴犬シバくんが作りだす小金井市で最もグローバルな空間   

総合政策学部政策科学科二年 渡邉紗千

 私は第一三五回多摩探検隊「多摩の名物店員・シバくんを追え!」の番組リポーターを務めた。番組では、私が「すずきたばこ店」という小金井市にあるタバコ屋さんを訪ね、そのお店で看板犬として活躍する柴犬の「シバくん」とそれを取り巻く人間模様についてリポートした。

 二年生になってゼミ活動をする中で、これまで何度か先輩方と一緒に事前取材に行ったことはあったのだが、いざカメラを使った撮影に挑むのは今回が初めてであった。そのためとても楽しみな気持ちもある一方で、「自分に与えられた役目をきちんとこなすことができるのだろうか」「リポーターとして番組に貢献できるだろうか」という不安のほうが何倍も大きかった。そのような心理状態でまずは、すずきたばこ店の場所やシバくんの情報を得るために駅前インタビューを始めた。リポートを初めて経験した私は、言葉が全くと言っていいほど出てこなかった。インタビューということで何を聞いて、どのような反応が正しいのかもよく分からず、相槌を打つことで精一杯であった。私は快くインタビューを受けてくれる多くの人々の優しさに安心し、先輩方の指導のもと駅前インタビューを何とか乗り越えることができた。駅前でのインタビューを終え、場所を移動し、すずきたばこ店に到着する頃には少し緊張もほぐれていた。

 すずきたばこ店に到着して、私たちを出迎えてくれたのはシバくんであった。ガラガラと店頭の小窓を開けてくれるその姿は何とも可愛らしかった。そして、その日一日シバくんと一緒に店番をしながらお店へやってくる人々へリポートを始めた。私たちが到着してすぐ、女性二人組のお客さんがやってきた。なんと彼女たちはインターネットにアップされているシバくんの動画を見てシンガポールから来たという。デジタル化の進展によって、小金井市の柴犬シバくんが、グローバルな存在になっていることに驚いた。まさにデジタル&グローバルの時代だと実感した。

 撮影は六時間にも及んだ。お客さんが来てはインタビューをする、という繰り返しだった。私たちはそこでたくさんの人たちに出会い、また見知らぬ人たちの間でコミュニケーションが生まれる瞬間に立ち会った。台湾からきた女性、メキシコから来た男性、国内からも多くのお客さんがやって来た。全くの他人同士がシバくんに会いに来るという同じ目的を持ち、シバくんを巡って、とても話がはずんでいた。小金井市の小さなたばこ屋さんで、グローバルな新しいコミュニティが出来ていることに驚き、そして心温まった。

 すずきたばこ店には「交流ノート」というノートが置いてある。そのノートは、シバくんに会いに世界中から訪れたお客さんのコメントでいっぱいになっていた。「大阪、滋賀、奈良から来ました!」と日本各地から訪れた人たちのコメントや、「シバくん頑張っていて偉いね!」とシバくんへ宛てられたメッセージもあった。また、「We love you Shiba Chan from England」「Ola! We came a long way just to see you from POLTUGAL, You are so cute!」など、日本語以外の外国語メッセージも数多くあった。

 店主の鈴木九子さんは「読めない文字もたくさんあるんですけどね…」と微笑まれた。シバくんの店番というお仕事については、「お客さんからは店番に見えるかもしれないけど、シバにとったら遊びの延長なんですよ。お客さんが喜ぶ表情を見て、シバも喜んでいると思います」。シバくんは周りの人々を笑顔にし、癒しを与えている。今や、小金井市になくてはならない存在になっていると思った。

 私はこの一日でコミュニケーションを取ることの難しさを改めて感じ、良い言葉が出てこないことへのもどかしさもあった。それでもこんな状態のリポーターに周りの人たちが「頑張ってね」と声をかけてくれたことが嬉しかった。それが私の小さな自信にも繋がったと思う。シバくんが作りだした小さなグローバル・コミュニティで、私はたくさんの人々の優しさに触れることができた。シバくんは、これからも小金井市というローカルな場所で最もグローバルな存在として頑張ってくれることだろう。


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# by tamatanweb | 2015-10-01 00:00

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 一人では越えられない壁   

総合政策学部国際政策文化学科三年 鈴木里咲

 二月上旬。今年も清瀬子ども放送局の活動が始まった。FLP松野良一ゼミでは二〇〇九年から、清瀬市内の児童センター「ころぽっくる」に訪れる子供たちと番組制作を行っている。私は、二〇一五年の清瀬子ども放送局のプロデューサーとして昨年に引き続き活動に携わることになった。そして、これがプロデューサーとしての初めての企画となる。

 まず、企画探しを始めた。この段階で大きくつまずいた。何枚も企画書を練ったものの、一緒に活動する「ころぽっくる」からいい反応がなかったのである。その時、職員の方に「子ども放送局の意義ってなんだっけ」と突然質問を投げかけられた。子ども放送の意義は、「子どもと一緒に地域の魅力を発見し発信すること」である。活動意義を口にしたときに、ふと我に帰ったような気がした。今までにない子ども放送局にしたいという気持ちが先行し、子ども放送局の根本的な目的を見失っていたのだ。そこで、子どもたちに直接清瀬の良さを聞いたり、清瀬を歩いたりしてみた。そして行きついたのが「野菜」「郷土料理」であった。企画に起こすにあたり、清瀬で農業をされている農家さん八人にお話を聞いた。そこで感じたのは農家であることに誇りをもっているということだった。清瀬の農家の方はおいしい野菜をつくることに手を抜かず、どんどん新しいことに挑戦しようとしていた。そんな農家の方の思いのこもった野菜を食べている清瀬の子どもたちに、その思いを肌で感じてもらいたい。野菜の収穫をして、そこから自分たちの手で調理し郷土料理であるうどんにして食べる。ようやく企画が決まった。

 ようやく演出を考えるのに時間を割けると思っていた矢先、ここでまた大きな壁が待っていた。協力してくださる農家の方が見つからなかったのである。丁度、開催時期が畑の植え替えとかぶり非常に忙しいというのと、郷土料理のうどんに入れることのできる野菜が少ないというのが問題だった。折角あがってきた企画なのに、農家の方がいらっしゃらないと活動が出来ない。焦りばかりが募っていった。撮影日が一か月後と近づいてきた時、ようやく協力してくださる農家の方が決まった。それが岸農園の岸一義さんであった。そして、以前から郷土料理うどんの体験教室を行っていた郷土博物館も快く撮影に応じてくれた。

 演出を考えていく上で、まず昨年の反省を見直すところから始めた。その中で、「子どもの素直な表情、発言が少ない」という点を改善することを一番の目標とした。今までの撮影では、カメラマンが撮影しディレクターが子どもたちに指示したり質問したりすることが多かった。それを今回、カメラマン一人が行うようにした。子どもとの対話を大切にすることで、より自然な姿を映そうと思ったのである。

 そして迎えた当日。朝早くから子どもたちは元気よく集まってくれた。野菜の収穫では、みんな大きな大根に格闘し、小松菜をお母さんに食べさせたいと言う子もいた。うどん作りでは、この活動に参加して良かったと言いに来てくれる子や、5杯目のおかわりをわざわざ報告しに来てくる子もいた。笑顔あふれる子どもの姿をみて、心からやって良かったと思った。今までに感じたことのない、大きな達成感だった。

 今回の活動を通じ、身をもって感じたのは、プロデュースすることの難しさである。始まった当初は、責任に押しつぶされそうになり、早く終わって欲しいと思うこともあった。そして、撮影を行うまでに何度か一人では越えられない壁があった。けれど、沢山にひとに助けていただき、無事撮影を終えることができた。険しい道のりだったが、だからこそ忘れられない活動になった。



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# by tamatanweb | 2015-09-01 00:00

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ニニ八事件68周年記念式典   

法学部政治学科三年 山田俊輔

 FLPジャーナリズムプログラム松野良一ゼミでは二〇一一年から台湾ニニ八事件の受難者やその遺族の方々に取材し証言を記録してきた。

 この事件には台湾人だけでなく、日本人も巻き込まれている。私達は今回、台湾ニニ八事件の式典に参加するため台湾の台北市に足を運んだ。

 通常、式典には関係者以外参加することができない。だが、二〇一四年一〇月二二日に取材を行った青山恵(けい)昭(しょう)さんのご厚意から、私たちは今回の式典に参加することができた。

 二〇一五年二月二八日朝、私たちは青山さんが率いる団体に連れられて、ニニ八和平紀念公園へと向かった。公園の警備は非常に厳重で入り口には何人もの警察官が目を光らせていた。

 日本人受難者遺族の方々は背負っていたリュックサックや手提げ鞄からそれぞれの遺影を出した。これにより受難者遺族ということが現地の方々にもわかったようで、彼らの周りには人だかりができていた。そのとき一人の女性が沖縄から訪れた受難者遺族のもとへ歩み寄った。その女性がどのような言葉を投げ掛けたのかはわからない。通訳を通してのやり取りだったが、お互いに涙を流しながら手を握り合い、言葉を交わしていた。お互いに名前も歳も、言葉さえわからなかった。ただ「台湾二二八事件に今もなお苦しめられている」という唯一の共通点が親密な関係を築きあげたのであろう。二人の苦労がどれほどのものだったのか私には想像もつかないが、遺族にとって事件は六八年が経つ今日でさえも終わっていないという現実を知った。

 その後私たちは来賓席へと招かれた。座るや否や式典は始まり、来賓席の最前列には馬英九総統の姿もあった。今回遺族の代表として台北市長である柯文哲(か ぶんてつ)氏がスピーチをした。柯市長の祖父は、知識人ということで国民党に逮捕され、拷問などのひどい扱いを受けた。出獄後三年間は寝たきりとなり、亡くなっている。神妙な面持ちで話していた柯市長は、手にしていたハンカチでスッと涙を拭いた。台湾語を話す柯市長の言葉を私は理解できなかった。しかし何度も嗚咽し、ティッシュで鼻をかむ姿に私は涙を誘われた。私だけでなく、会場が涙に包まれていた。

 スピーチを終え席に戻ろうとする市長に対し、馬総統が握手を求めた。このとき私にとって最も印象深い出来事がおこった。柯市長はこれを断り席に着いたのだった。この一瞬の出来事が私には忘れられない。「私の立ち会ったこの瞬間が後に社会の教科書に載るのではないか」。私にとってそれほど衝撃的な瞬間だった。握手を断った柯市長は後に「手が汗をかいていたから断った」と述べた。実際のところ真相はわからないが、国民党に対する怒りが未だに収まっていないからこそ今回のようなことに繋がったのではないだろうか。私は六八年たった今でもこの事件は全く終わっておらず、その禍根は今でもなお受難者遺族の胸に深く突き刺さっていることを思い知った。

 柯市長のスピーチ後、馬総統が壇上に上がった。「事件の教訓は忘れない。台北市には中央と協力して社会の和解を進めてほしい」。馬総統はスピーチの中でこのように話した。

 スピーチを終えた式典後、再び馬総統は市長に握手を求めたがこれも叶わなかった。この一連の出来事は翌日の地元各紙に取り上げられた。日本でも、この記事について『台湾2・28事件式典で台北市長握手拒否』という題で掲載していた。
これほど深い問題に対して、私たち学生ができることはどのようなものがあるだろうか。「受難者遺族の声を広く伝えること」。私にできることはこれだけだ。歴史的瞬間に立ち合った私だからこそ、伝えられることもあるはずだ。そう信じてこれからの活動に尽力したい。



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# by tamatanweb | 2015-09-01 00:00