無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:高浜子ども放送局( 7 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 私が、二回泣いた理由(わけ)   

総合政策学部国際政策文化学科三年 住田達

 私は、福井県の小さな町で泣いた。それも二年連続である。なぜ福井県の小さな町で涙を流したのか。私は、その涙の理由を考えてみることにした。なぜなら、この涙の理由を探ることは、私の大学生活における大切な経験を振り返ることにつながると考えたからである。
私が涙を流した土地は、福井県大飯郡高浜町。再稼働するかどうか注目されている高浜原発がある場所である。東京から遠く離れたこの小さな町に私が行った理由は「若狭たかはま子ども放送局」というプロジェクトがあったからである。このプロジェクトは、FLP松野良一ゼミの学生が現地の子どもたちと共に地域再発見番組を制作するというもので、もう一〇年以上続いている。私は、このプロジェクトに二〇一四年夏と二〇一五年夏と二度参加した。現地で行う活動は全三日間で、夏祭り「漁火想(いさりびそう)」をリポートしてもらい、徹夜で作品を完成させ、最終日には、制作した番組を上映する。子どもの保護者や観光協会の方々、お世話になった宿の方などに見ていただいて批評をいただくというプロジェクトである。私は、その上映会の場において、二年連続で涙を流してしまった。(写真1)
 今振り返ると私の涙には、二つの理由があったように思う。
一つ目は、「プレッシャーからの解放感」である。地理的問題から事前に現地の下見ができなかった。本番数か月前からクルーでの会議や高浜の方々とのメールや電話を繰り返した。特に、二〇一五年はプロデューサーという統括の立場であったため、プロジェクトを無事終えることができるかという不安のほかに、撮影クルーや子どもたちの体調管理など、本番まで様々な不安が積み重なった。上映が終わりプロジェクトが無事に完結した時、安堵感と協力してくれた人々への感謝の気持ちから涙が止めどもなく溢れてしまった。
二つ目は、高浜の人たちの上映後の拍手と感謝の言葉をもらったためである。上映が終わると観光協会の方や保護者の方々から次々と「ありがとう」と言われた。また、リポーターを務めてくれた五人の小学生は、「子ども放送局に参加できてよかった。また、来年、高浜で待ってるで!」と目を潤ませながら言ってくれた。我々大学生のクルーに至らない点は数多くあったと思う。しかし、最終的に地元の方々に喜んでいただけることが、私としては最大の喜びであり、やりがいを感じるものであった。こうした感情が重なり、私は、高浜で涙をこらえることができなかった。(写真2)
 今、過去二年間に制作した番組を見ると様々な感情がよみがえる。子ども放送局がなければ決して行くことがなかった遠く離れた小さな町。決して出会うことがなかった人々。自分が育った環境とは異なる小さな町の夏祭り。そこに集う様々な想いを持った人々と触れ合い、そして、かけがえのない経験をさせてもらった。
 お祭りの実行委員長が、子どもリポーターのインタビューに対してこう言った。(写真3)「この海をずっとずっと守っていきたいと思います。みなさんも大きくなったら協力してね!」
 原発と隣り合わせで生活をしながらも、誰よりも高浜という地を愛し、自分たちの手でその魅力を守っていこうとする彼らの姿は、とても印象的であり、感動的であった。
大学入学時には想像もしていなかったこの二年間の経験は、これからの私に、生きる上での力を与えてくれたものだった。
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by tamatanweb | 2016-01-01 00:00 | 高浜子ども放送局

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 高浜一色の夏   

総合政策学部国際政策文化学科二年 清水千景

 6月中旬。私は「若狭たかはま子ども放送局」のディレクターとして、活動に携わることとなった。「若狭たかはま子ども放送局」とは、福井県大飯郡高浜町で、地元の子ども達とともに「地元の魅力を再発見」をテーマに、番組を制作するプロジェクトである。
正直に述べると、当初この活動に関わる予定ではなかった。元々、別にディレクターがおり、高浜でネタ探しを行った時、同じ日に2つのお祭りが行われることを発見した。2つのお祭りを別々にリポートしたら面白いのではないか、ということで、各お祭りに1人ずつディレクターを立てることになり、私も参加することになった。こうして、高浜町高浜地区で行われる「漁火想(いさりびそう)」と、高浜町内浦地区で行われる「来てミナーレ内浦」という2つのお祭りを題材に、私の夏休みが高浜一色に染まることになった。
 「若狭たかはま子ども放送局」で難しいことは、活動場所が福井県のため事前取材、ロケハンが出来ないことだ。したがって事前に子ども達との交流や、撮影に使う場所の確認をすることが出来ない。これまでのゼミ活動の中で、事前取材、ロケハンの大切さや、取材対象者と仲良くなることで撮影の内容も大きく変わるということを学んでいた。そのため、これまでとは違う撮影にとても不安が募るばかりであった。実際に高浜町で活動できるのは、3日間しか無い。この3日間の中で私たちは事前取材、ロケハン、撮影、編集、上映を行わなければならない。「子ども達と仲良くなれるだろうか」「自分に与えられた役割をしっかりと行うことが出来るだろうか」。いくら準備しても拭いきれない不安の中で、「とにかく、東京で出来ることは全てやろう」と思った。何度もクルー会議を重ね、あらゆることに対応できるように準備をした。
 迎えた8月下旬。曇天の中、不安な気持ちと共に福井県に向かった。1日目は子ども達との企画会議、ロケハンを行った。子ども達と初めて顔合わせをした時、子ども達はとても元気に会議に参加してくれた。子ども達が自発的に意見を言ってくれる姿を見て、次の日の撮影が楽しみになった。
 2日目。この日はお祭り当日、そして撮影本番の日だった。朝起きて窓の外を見てみると、「台風?」と思ってしまうような強い風と横殴りの雨だった。クルー全員が、雨が止みお祭りが決行されることだけを祈った。祈りが通じたのか、朝食を食べ終わる頃にはなんとか雨は上がった。今にも降り出しそうな天気の中行われた撮影は、先輩方と子ども達におんぶにだっこといった状態だった。子ども達は撮影を重ねるごとに、カンペがなくても、自分で取材対象者に話を振れるようになった。私が指示を間違え、もう一度撮影しなくてはならなくなったときがあった。その時も子ども達は「大丈夫!気にすんなよ!」と、大人びた口調で慰めてくれた。また、朝早くから夜遅くまで続いた撮影も、子ども達は最後まで元気に乗り切ってくれた。この撮影が成功したのも、ひとえに子ども達のおかげだ。この短期間で子どもの成長を間近で実感することが出来た。
撮影終了後、怒濤の編集を終え3日目を迎えた。この日は上映会が行われた。上映会は終始笑い声に包まれ、無事高浜で過ごした3日間の幕を閉じた。
 この活動を通して、高浜町の1番の魅力は人の温かさだと思った。年齢の壁など関係なく、誰とでも仲良くなれる子ども達。私たちがミスをしても笑い飛ばしてくれ、一緒に悩んでくれる方々。高浜を離れる時、子ども達はしきりに「来年も来てくれるよね?」「また会えるよね?」と口にした。その言葉が何よりも嬉しかった。こんな暖かい方々と一緒に活動できて、本当に貴重な時間を過ごすことができたと思う。
 来年も必ず高浜町に行こう。
 私は今回、成長することができたのだろうか。子ども達に引っ張られ、先輩に背中を押してもらって何とか最後まで遂げることができた活動だった。ただ、この「最後までやり遂げることができた」ということが、私の次への自信に繋がったと思う。
 来年の夏休みはどのように過ごすのだろう。来年も「未来の自分」に向かって1つ自信を付けられるような夏にしたい。
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by tamatanweb | 2015-12-01 00:00 | 高浜子ども放送局

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 原発の町の「子ども放送局」-何を可視化させてきたのか   

法学部法律学科二年 西山周

 「若狭たかはま子ども放送局」(2015年8月福井県高浜町で開催)の準備作業が、同年5月から始まった。私はそのディレクターを務めることになった。私にとって、1番早く決まった夏休みの予定であった。その時はまだ、これまでの人生で最も印象的な夏になるとは思ってもみなかった。
高浜町とは、福井県の最西端に位置している自然豊かな町である。主な産業は、漁業や観光産業である。近年過疎化が進んでおり、2009年には4つの学校が廃校になっている。小さな漁村である高浜町が生き残るために選んだものが、原子力発電所の誘致だった。この町は、自然景観と原発、危険性と補助金、観光と風評、というような複数の「矛盾」を抱えながら生きてきた。実際に若狭高浜観光協会によれば、2004年、美浜原発で11人が死傷する事故が発生した時は、約2000件の民宿キャンセルが発生したという。そのような中、どうして10年以上も外部の人間、つまり中央大学の学生たちがプロデュースする「若狭たかはま子ども放送局」が続いてきたのか。その答えは、高浜町を訪れるまで分からなかった。
 撮影当日、いざ撮影しようとすると思うようにいかない。それは、インタビューを受けた観光客が緊張していたこともあるが、何より私が一番緊張していた。その緊張が観光客に伝わったのか、その観光客はなかなか心を開いてくれなかった。その中で、雰囲気を変えたのが子どもの笑顔だった。子どもの笑顔を見て、その観光客もニコッと笑った。インタビューは、そこから順調に進んだ。
撮影が始まる前、私の役割は、番組制作方法を子どもに教えることだと思っていた。しかし今回の撮影で、相手に心を開いてもらうことがインタビューする上で最も大切なことだと、子どもたちから教わった。ただ、この時もまだ、この番組制作が高浜町で長年行われてきた理由は分からないままであった。
その答えを見つけたのは、撮影したVTRを見直していた時だった。子どもが、漁師をしている船長さんに、高浜町への思いを聞いた。すると、船長さんはこう答えた。
「海がきれい。大阪にも出稼ぎに行っていたが、子どものころからずっと見てきたこの海が一番きれい。だから、また高浜に戻って約25年間漁師をやっているんだよ」
一人の初老の男性が、海の美しさとともに故郷への思いを語っている場面であった。これは一見何気ないカットなのかもしれない。しかし、私はこの番組が長く続く理由を、そのカットの中に見出したような気がした。もし私が、ここで子どもたちと同じように質問をしたら、船長さんはあの笑顔で同じ言葉を返してくれただろうか。恐らく聞いたのが同じ町に住む子どもだから、あの映像が撮れた。同じ町の子どもたちだからこそ、町の人々の無意識にあるものを可視化できたのだろうと思った。
 高浜町は、いくつもの「矛盾」を抱えながら歩んできた。町の人々の心の中には、現状に対する不安もあるだろう。しかし、一方で、町への愛着や誇りがあることも確かだ。その愛着や誇りを、「若狭たかはま子ども放送局」は可視化し続けてきた。
これが「若狭たかはま子ども放送局」が10年以上も続いてきた理由であり、私たちが高浜町に残すことができたものではないだろうか。
高浜町の青い海と青い空を思い出しながら、私は強くそう思った。
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by tamatanweb | 2015-12-01 00:00 | 高浜子ども放送局

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 10年の歴史を背負って   

文学部フランス語文学文化専攻2年 佐伯綾香

私の所属するFLP松野良一ゼミでは、若狭たかはま子ども放送局という活動を行っている。活動場所の福井県高浜町では、毎年夏に漁火想というお祭りがある。若狭たかはま子ども放送局は、このお祭りに合わせて、高浜町の子どもたちと大学生がVTR を制作するプロジェクトだ。若狭たかはま子ども放送局は、漁火想を第1回から毎年取り上げており、漁火想とともに、今年で11回目を迎えた。今回、私たちは、漁火想のリポートをする漁火想班と、町の良いところを紹介する町班に分かれて活動した。私はディレクターとして、町班を担当することになった。私はゼミに入る前から、若狭たかはま子ども放送局に参加したいと思っていた。そのため、ついにこのプロジェクトに、ディレクターという立場で参加できることへの喜びで胸がいっぱいだった。

 だが、現実はそう甘くはなかった。番組の企画探しという最初の段階から難航したのだ。企画は、今までに子ども放送局で取り上げていない、高浜ならではのものを見つけなければならない。それは容易なことではなかった。役場に電話をしても、企画になりそうな情報は仕入れられない。毎日毎日、パソコンで企画を探しても、見つかるのはこれまで子ども放送局で取り上げられたものばかり。企画が見つからなければ、活動はできない。もし企画が見つけられなかったら…。10年の歴史を途切れさせてしまうのではないかと、私はこの重責に押しつぶされそうだった。

 そんな時、私は、高浜町に若狭ふじという特産品のブドウを栽培している方がいることを知り、連絡をとった。若狭ふじを栽培している方の「若狭ふじを食べた人に、またこれを食べるために高浜に行こうと思ってもらいたいんです」という言葉を聞き、私はこの若狭ふじを、企画として取り上げようと決めた。しかし、私たちが撮影を予定していた日は、若狭ふじの収穫期間とかぶっていたため、撮影不可能だった。私は頭の中が真っ白になった。もう当日までほとんど時間は残されていなかったにも関わらず、振り出しに戻ってしまったのだ。「もう町班は活動出来ないのではないか」と、茫然自失の状態になってしまった。

 そんな時、私を支えてくれたのは、ゼミの先輩や同期、家族、これまで快く応対してくださった高浜の方々だった。次へ進んでいくしかないんだよと背中を押してくれた先輩や同期。離れていながらも、心の底から応援してくれた家族。そして協力してくださった高浜の方々。「ここで私が諦めるわけにはいかない」。そう強く思った。 私は一心不乱に企画を探し続けた。ネットに掲載されている高浜町の広報誌を片端から洗いなおした。そしてようやく、昭和60年代、高浜町は日本一民宿の多い町だったという事実を発見したのだ。これは企画になる!という直感が働いた。ついに、子どもたちが女将体験を通じて民宿の姿をリポートするという内容の番組を作ることが決定した。

活動当日、60年の歴史を持つ「五作荘」という民宿で撮影を行った。五作荘は日本で初めてフグの蓄養に成功した民宿だ。今でも民宿の近くの海にフグの生簀があり、約500匹ものフグを蓄養している。子どもたちは、ボートに乗って岸から生簀へと向かい、ご主人にコツを教えてもらいながら元気いっぱい餌を投げた。大口を開けて餌にかぶりつくフグの姿を、子どもたちはとても興味深そうに見ていた。フグの餌やりの他にも、客室の掃除や夕食の下準備などたくさんの活動を行ったため、少し慌ただしい撮影になってしまった。予定通りに撮影が進行できなくなってしまうかもしれないと、大学生は焦っていた。そんな時、子どもたちがインタビューの受け答えを上手く出来なくなってしまった時があった。ただでさえ緊張しているところに、大学生の焦燥感が伝わってしまい、子どもたちは追い詰められていた。そのことに気付かされた私は、少しでも余裕を持たせてあげなければと、「素直に思った事を言ってみよう、大丈夫だよ」と励まし続けた。すると子どもたちは、それに応えようと明るく元気にリポートしてくれた。

撮影も無事に終了し、翌日には完成した番組の上映会が行われた。上映後に、町班の子どもたちが私の元へやってきた。「すごく楽しかったよ。また来年も来てね!」と言って、少し恥ずかしそうに手紙を渡してくれた。その時、心の中にあった様々な思いが、涙と一緒にあふれ出した。若狭ふじの企画がつぶれて諦めていたら、子どもたちの笑顔に正面から向き合うことはできなかっただろう。そして、私が今こうしていられるのは、たくさんの人が支えてくれたおかげだ。若狭たかはま子ども放送局を通じて、本当に大切なことに気づかされた。

帰りの電車の中で手紙を読んだ。「大変で嫌になっていた時、励ましてくれてありがとう」。子どもたちの笑顔を思い浮かべながら、私は高浜の地を後にした。
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by tamatanweb | 2014-02-01 00:00 | 高浜子ども放送局

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 10年という軌跡 ―「若狭たかはま子ども放送局」に参加して―   

法学部法律学科二年 田端夕夏

私が所属するFLP松野良一ゼミでは、二〇〇三年から毎年、「若狭たかはま子ども放送局」というプロジェクトを行っている。福井県高浜町の小学生たちと私たち大学生が一緒になって、高浜町の魅力を企画、取材、撮影、編集をして一本のテレビ番組を制作しているのだ。私は今回、初めて子ども放送局の活動に参加し、ディレクターを務めることになった。

今年も例年通り、小学生四人に「若狭たかはま漁火想」のリポートやインタビューをしてもらうことになった。

「若狭たかはま漁火想」とは、高浜町観光協会が音頭を取り、町ぐるみで住民が力を合わせて作りあげているお祭りである 。日中は、砂浜にご当地フードの屋台が並ぶ。夜は、砂浜一面に敷き詰められた約六〇〇〇個のキャンドルが灯される。また、迫力満点の水中花火、櫓ドラゴンなども有名である。このお祭りも「若狭たかはま子ども放送局」と同じく、今年で一〇周年を迎えた。現在では、2~3万人が関西や名古屋から駆けつけるほどのお祭りに成長している。「この記念すべき年に、何か特別なことができないだろうか」と、私は考えた。そして今回は、新たなブロックを設けること企画した。それは、①「参加している人たちに、漁火想一〇年目の想いを一枚のTシャツに書いてもらう」、②「以前リポーターを務めた子どもたちに、今回リポーターを務める子どもたちがインタビューする」の二つである。一〇周年の節目として記念になるようにと、何度もクルーと話し合いを重ね、考え出したものだ。

初めてのディレクターにも関わらず、新しい内容を織り込むなんて無謀かもしれない...。そう思いつつも、そんな不安を少しでも解消するため、何度も会議を重ねた。そして二〇一二年七月二七日、私たちは新幹線と鈍行列車を乗り継ぎ、福井県高浜町へ向かった。 初めて見る高浜町の白砂青松の風景、初めて会う子どもたち。撮影の事前打ち合わせも撮影も、一日で終わらさなければならない。失敗は、許されない。しかしリポーターの子どもたちの中には、去年も「子ども放送局」に参加した経験者もいた。よく段取りがわかっていたため、初めての子をしっかりサポートしてくれたのだ。新人の私には、彼らがとても頼もしく映った。

しかし、ディレクター初挑戦の私にとって、撮影現場は初めてのことだらけであった。綿密に準備して行ったにも関わらず、なかなかスケジュール通りに、撮影が進まない。その上、「Tシャツにメッセージを書いてもらう」という新しい企画が、思ったように進んでいなかったのだ。撮影と同時進行で進めるはずだったのだが、撮影の進行の遅れと共に、遅れが出始めたのだ。このTシャツは、最後に記念として、観光協会にプレゼントすることになっていた。このままでは、中途半端なものしか渡せない、どうしよう...。ディレクターの私が、まとめなければならないのに。どんどん焦りが募る中、時間だけが過ぎていった。

「何をしているんだろう...」。私は悔しさで、カンペを書く手が震え、思わず涙が出そうになった。その時、三年前にリポーターを務めた子どもたちが、どこで聞きつけたのかやってきてくれた。そして、「私たちがメッセージを集めてくるよ」と、言ってくれたのだ。「ごめんね。お願いします」。私が申し訳なさそうに、頭を下げた。子どもたちはTシャツを持って、あっという間に、人ごみの中へ消えていった。そして数十分後、早くも子どもたちが帰って来た。Tシャツには、隙間がないほどたくさんのメッセージが書き込まれていた。感動と安堵で、私は何も言えなくなった。ただ、涙が出た。「ありがとう...」というのが精いっぱいだった。

私がゼミの先輩に頼み込みデザインしてもらい、手作りで作成したTシャツ。それが、高浜町の人々のメッセージでいっぱいになった。それは、今まで一〇年間、ここ高浜町の子どもたちが、「子ども放送局」を通じて培ってきたネットワークの力そのものであった。一〇年間、私たちの先輩が、毎年高浜町に来て、子どもたちと一緒に試行錯誤しながら作り上げてきた「若狭たかはま子ども放送局」。最初は、私たちが考えられないような苦労もあったことだろう。しかしこうして、新人の私が来てもスムーズに撮影が進むほど、大きな輪に育ったということなのだ。そしてなにより、代々の子ども放送局のリポーターたちが、この「若狭たかはま子ども放送局」を大切に思ってくれている。それがなにより嬉しかった。

寄せ書きの一つに、「(漁火想は町の)宝物」という言葉があった。私にとっても、今回の活動は大切な「宝物」になった。「若狭たかはま子ども放送局」も、私たちの活動も、毎年毎年バトンを渡すように、心を繋いでいくことで大きく育っていく。そして、その一端に関われたことを、とても誇りに思う。私と一緒で今年新人だったリポーターの子どもたちは、来年はリーダーとして引っ張っていってくれるだろう。私も今年はバトンを受け取るだけで精いっぱいだった。しかし来年は、ちゃんとバトンを渡せるようになろう。私はこの思いを胸に刻み込み、帰りの鈍行列車に乗りこんだ。
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by tamatanweb | 2012-11-01 00:00 | 高浜子ども放送局

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 割り箸から始まった成長 ―高浜の小学生から学んだこと―   

経済学部国際経済学科2年 照井将人

二〇一一年七月二三日、福井県高浜町で「若狭たかはま漁火想(いさりびそう)」が催された。「若狭たかはま漁火想」とは、二〇〇三年から始まった高浜町の夏祭りである。若狭湾に面した浜辺には、地域の名物料理の屋台が立ち並び、夜になるとキャンドルが灯される。湾では水中花火が打ち上げられるなど、幻想的な美しい光景を見ることが出来る。

FLP松野良一ゼミは毎年、大学生が高浜町の小学生たちをサポートしCATV用の番組を制作するプロジェクト「若狭高浜子ども放送局」を行っている。今回私は、小学生と一緒に「若狭たかはま漁火想」の様子を伝える番組を制作した。番組制作に携わったのは、小学四年生の男の子二人、女の子三人の五人。皆、初めて子ども放送局に参加する子どもたちばかりであった。

祭り当日、私たち大学生は「子ども放送局」に参加する小学生と初めて顔合わせをした。初対面にも関わらず、子どもたちは元気いっぱいに自己紹介をしてくれた。私たちとも、すぐに打ち解けることが出来た。明るくて元気いっぱいのこの子達がリポーターになるのだから、絶対に面白い番組が作れる―。私はそう思った。

自己紹介を終えると、私たちは早速、祭りに遊びに来ているお客さんへのインタビューを撮影した。子ども達は、ハキハキとした口調で、笑顔でリポートをこなした。とても初挑戦とは思えないほど、リポートは上手で、私はとても驚いた。

しかし、リポーター役の男の子の一人が、インタビューをする時に、マイクをなかなかうまく使うことが出来なかった。相手が喋っている時に、マイクを相手の口に向けることが出来ないため、マイクが音を拾えていなかったのだ。撮影の合間に、マイクを相手にしっかりと向けるよう、私は彼にアドバイスをした。男の子は、うまく出来なかったのが悔しかったのか、少し不満げな様子だった。その後、何度撮り直しても、その点が改善されることはなかった。男の子自身も、やりきれないような、沈んだ表情を浮かべていた。不安を残したまま、午前の撮影が終了した。

昼休みになっても、男の子はずっと落ち込んだ様子だった。どうしたら、上手にマイクを使い、インタビュー出来るのだろうか―。そう思った私は、昼食を食べながら、男の子と練習を始めた。弁当の割り箸をマイクに見立てて、私が相手役になり、タイミング良く相手にマイクを向ける。このような練習を何度も繰り返した。「上手くなっているよ、その調子!」と、私は何度も声をかけた。落ち込んだ様子を見せていた男の子も、次第に元気を取り戻し、練習に打ち込んだ。

そして、午後の撮影が再開された。しかし、彼のリポートはあまりよくならなかった。緊張のせいなのか、相手が喋っていても、マイクを自分の口元から離そうとしない。「昼休みの練習を思い出して、ゆっくりで良いからやってみよう!」と、彼が気を落とさぬよう、私は何度も声をかけた。すると、彼が行ったリポートは、午前の撮影に比べて少し話すテンポが遅くなってしまったが、しっかりと相手にマイクを向けることが出来るようになったのだ。撮影を終え、私は男の子のもとに駆け寄った。「出来たじゃん!」と、私が声をかけると、「出来たのかなあ」と、男の子は返した。私が褒めても、男の子はあまりしっくりこない表情だった。そこで、私は彼に、撮影した映像を見せた。すると、「本当だ!午前中と全然違う!」と、彼は目を輝かせながら、嬉しそうに画面を眺めていた。彼自身、しっかりと自分の成長を感じることが出来たようだった。そんな彼を見て、私自身も達成感を覚えた。

撮影の翌日、制作した番組の上映会が開かれた。リポーターを務めた子どもたちが楽しそうに上映を待っている中、男の子だけは不安な面持ちを見せていた。どんな風に自分が映るのか、不安だったのだろう。しかし、VTRが始まると、その表情は一変した。彼がインタビューしているシーンが流れると、会場にいるお客さん達が皆、一斉に笑ってくれたのだ。それは、彼がインタビュー相手と軽妙なやり取りを行う、とても楽しいシーンだった。そして、観客の笑い声が会場に響き渡る中で、誰よりも嬉しそうに画面を見つめていたのは、彼自身だった。そんな姿を見て、私の目からは思わず涙がこぼれた。マイクを上手く向けられず落ち込んだり、割り箸を使って何度も練習したり...。短い期間ではあったが、男の子と一緒に、私も困難に直面した。しかし、その後の彼の成長ぶりを思い返すと、本当にこのプロジェクトに携わることができて幸せだと思った。うまくいかないことがあっても、落ち着いてやれば、必ず最後には出来るようになる。今回の子ども放送局を通じて、そんな大切なことを、私も男の子と共に学んだ。上映会が終わると、男の子は、すぐさま私のところに駆け寄り、「楽しかったよ!」と声をかけてくれた。私が高浜を去る時も、彼は笑顔を絶やさなかった。

番組の最後に、リポートしていた子どもたちが感想を語る場面がある。そこで、男の子はこう語っている。

「また子ども放送局をやりたいです。次はもっと、上手にリポートできるようになりたいです」。

彼の言葉を胸に刻み、私はまた、次の子ども放送局に挑戦したいと思う。
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by tamatanweb | 2012-02-01 00:00 | 高浜子ども放送局

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 高浜子ども放送局 ―白砂青松の町の小さな感動   

大学院 総合政策研究科 博士前期課程 2年 廣田衣里子

※子どもたちの制作をサポートするティーチングアシスタント(TA)が執筆しています

白砂青松の町・高浜町

福井県高浜町という町をご存知だろうか。福井県の最西端にあり、若狭湾国定公園に指定されている。美しい海と山々に囲まれる人口12,000人ほどの小さな町で、夏には海水浴、冬にはフグやカニ目当てに、近隣の府県からたくさんの観光客が訪れる。関西電力の高浜原子力発電所がある場所といえば、耳にしたことがある方も多いだろう。

その高浜町で、毎年夏に「若狭たかはま漁火想(いさりびそう)」と呼ばれる町最大のお祭りが行われる。町おこしを基軸とした住民企画・参加型のイベントで、たくさんの住民たちがボランティアとして祭りを支え、観光や産業の推進に一役かっている。

高浜子ども放送局とは

この「漁火想」を、地元の小中学生たちが取材・撮影し放送用の番組を制作する「高浜子ども放送局」が、2003年から毎年おこなわれている。中央大学FLPジャーナリズムプログラム松野良一ゼミが、高浜町観光協会、高浜町教育委員会と協力しておこなっている地域情報化、地域活性化プロジェクトだ。

制作される番組には、漁火想の目玉イベントである砂浜キャンドルや水中花火に加え、町の人のゆかいなインタビューが盛りだくさん。2005年の作品では漁火想の様子だけでなく、街にくりだして高浜町の魅力をリポートした。子供たちのずっこけぶりと一生懸命さで、なぜか大爆笑してしまう番組ばかりである。

子どもの成長にびっくり

子供2、3人の撮影チームに学生1人がティーチング・アシスタント(TA)として付く。ビデオカメラでの撮影や取材交渉の仕方を教える。子供たちは最初、恥ずかしがってビデオカメラの前でリポートしたり、知らない人に声をかけることがなかなかできない。しかし、3時間もすれば自分でカメラを持って撮りたいものに駆け寄り、どうしたらきれいに撮れるかを考えたり、マイクを持ってしっかりレポートができるようになる。TAである私は、いつもその光景に感心させられてしまう。時には、取材対象にアドリブの質問をして笑わせてくれたりもするから驚きだ。

地域情報化にも貢献

町の人にインタビューをしようと出演のお願いをすると「ああ、前に○チャンネルでやっていたやつでしょ?見たよ。」と快く受けてくださる人も最近では出てきた。前年の番組をテレビで見て、興味をもったという声も聞いた。普段は緊急災害情報のための文字放送が多く流れるCATVのチャンネルに、子供たちの番組が流れることに相当のインパクトがあったのだろう。高度のインフラが整備されているもののコンテンツ不足という地域情報化の問題の解決にも、この子ども放送局は貢献しているようだ。

上映会の感動

過去の番組(合計5作品、3時間)を一挙上映する上映会も、2006年に高浜町文化会館のホールで行った。会場には地域の住民や役所の方々約70名が集まり、子供たちのリポートに爆笑したり感動したりする光景が見られた。

作品上映後に、制作者として舞台あいさつする子どもたちの姿は、撮影前にカメラの前でモジモジしていた彼らとは違う、自分たちの番組を完成させた喜びと自信に満ち溢れていた。

来場した地域の方々は、「面白かった」「子供たちのレポートがかわいかった」など、さまざまな感想を下さった。中には「高浜町にはいい所がいっぱいあると、改めて知った」と、町にさらに愛着を感じるお客さん。特に印象に残っているのは、学校の先生や親御さんたちが「子供たちはとてもよく頑張った。ほめてあげたい。」と、目に涙を浮かべていたことだ。子供たちの番組がこれほどの感動を呼ぶとは予想しておらず、この上映会は私にとって印象深いものになった。

子ども放送局の意味

私はこの活動に携わったことで、わかったことが3つある。

1. 子供放送局のプロジェクトは、メディア教育にとても効果的である。普段視聴しているだけのテレビ番組を子供たちが自分の手で制作することによってメディアリテラシー(メディアを読み解き、批評的に視聴する能力)、および自ら取材活動を行うことによる自主性・コミュニケーション能力の育成に役立つ。

2. 子供たちが制作した番組は、コンテンツとしての価値が高い。地域のことを子供たちがリポートし、紹介する番組は、芸能人リポーターが出演する番組とは違う魅力があり、時には子供たちの方が面白い番組を作ることができる。

3. 子供たちの番組は、地域活性化の起爆剤になる。子供たちが街をリポートすることによって自ら地域のことを知るということはもちろん、地域の面白い番組を地域の人々が見ることによって地域への興味や愛着を感じることにつながる。それが地域の活性化にとって重要な要素になる。

子供放送局の魅力は、なんといっても感動だ。面白いのは番組だけではない。子供たちの成長、地域の魅力の再発見...。地域の皆さんと一緒になって番組を制作し、そのコンテンツによって地域に新しい価値を創造する。地域の行政や企業だけではできない、みんなで作り上げる地域活性化がそこにはある。
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by tamatanweb | 2007-04-01 00:00 | 高浜子ども放送局