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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カメラの向こう側   

法学部 政治学科 3年 齊藤 綾



2008年10月18日。朝5時半に、自宅を出た。ひんやりとした空気に思わず背筋が伸びる。モノレールの駅の向こうに見える空が、薄いピンク色をしていたことをよく覚えている。私はこの日、初めてビデオカメラの前に立った。

「多摩あるきたい! ~高尾山編~」で、私は"土佐出身の齊藤隊員"として、大槻隊員とリポートをした。最初にリポーターの話が上がったときは冗談かと思ったが、どんどん話は進んでいき、撮影日になってしまった。いつもは、カメラを構えて撮影する側にいる私。リポーターは、いわば「カメラの向こう側」の存在だった。どんな顔をすればいいかも、どこを見ればいいかも、どんなコメントをすればいいかもわからないまま、高尾山のふもとまでやってきた。

高尾山の山頂までのルートは、全部で5コースある。そのすべてを1日で制覇するというのが、今回の企画。中学・高校の6年間合唱部に所属し、もともと運動が苦手な私にとって、リポートだけでなく企画内容も不安だらけだった。「とにかく山頂にたどり着こう!」と心に決めて、登り始めた。しかし、序盤は元気があったものの、だんだんと口数が減ってくる。歩いても歩いても周りに見えるのは木々のみだったときには、ただでさえ下手なリポートが、全く口から出てこなかった。2回目の山頂からの景色を眺めたときには、「まだ2回目か...」とぐったりしていた。

最後のルートである稲荷山コースを登りだした頃には、日の入りまであと1時間ほどしかなかった。結局途中で日没を迎えたため、懐中電灯を片手に黙々と登り続ける。すっかり日が暮れてから着いた山頂では、蕎麦屋の店員さんが帰宅するところだった。もちろん、登山客はもう誰もいない。貸し切りの山頂から見る夜景は、思わず声を上げてしまうくらいきらきらと輝いていた。

後日、多摩探検隊を毎月放送していただいている、八王子のケーブルテレビの方に会ったときに「あれ、本当に何回も登ったの?」と驚かれた。そして「10分にしちゃうの、もったいなかったね」と言っていただいた。VTRでは10分に縮められているけれど、実際はゼーゼー言いながら12時間も歩き続けたあの日。ゼミ生以外からもらう言葉はどこかくすぐったい気分だった。

「多摩あるきたい! ~高尾山編~」は、学生だからできた企画だと心から思っている。私は全然リポーターとしての役割を果たせなかったけれど、本当に貴重な経験ができた。視聴者を意識して話さなければならないという難しさを、身をもって知った。下山するためのケーブルカーがなくて、真っ暗な道をみんなでキャーキャーと騒ぎながら歩いて帰ったのも、楽しい思い出となった。今でもたまに高尾山に登りたくなったりする。さすがに1日に何度もは登りたくないけれど。

# by tamatanweb | 2010-01-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 誰も知らない場所、人、思い   

法学部 3年 白川 遼



夏の暑さも和らいできた二〇〇八年九月、私は檜原(ひのはら)村を訪れた。インターネットで檜原村のホームページを見つけて、興味を持ったからだ。 東京都檜原村は、島峡部を除いた東京で唯一の村である。人口は三千人。過疎化と高齢化が進み限界集落もある。東京都でありながら自然が多く、東京都では唯一、日本の滝百選に選ばれた「払沢(ほっさわ)の滝」がある。檜原村はいわば、東京の隠れた観光スポットともいえる場所だ。

中央大学に入り多摩に住むようになってからおよそ一年半が経つが、檜原村という名前すら聞いたことがなかった。とにかく番組を作らなければ、と焦っていた私は、行ってみれば何かあるかもしれないと思い、とにかく一度取材に行くことを決めた。

番組制作のための事前取材という名目ではあるが、都心から遠く離れたその地へ行くのは、小旅行に近い感覚だった。ちょっとした冒険心も相まって、気持ちは昂ぶった。

中央大学多摩キャンパスに近い私の自宅からおよそ2時間。電車とバスを乗り継いで、ようやく檜原村に到着した。

バスから降りて周囲を見渡すと、一面森であった。民家もまばらである。こんな場所に本当に面白いものがあるのか、と不安になりつつも、目的地である払沢の滝へ向けて歩きだした。

滝を見て帰る途中、一軒の小さな食堂に立ち寄った。三〇年前に嫁いでこの村に来たという女性店員は、人口も少なく高齢化も進むこの村を何とかしたいという思いからこの食堂を手伝い、檜原村特産のじゃがいもやこんにゃくを使用した料理を提供しているという。

その女性は「若い人は村を出ている方も多いが、帰ってきて、結婚して子どもを生んで賑やかになってほしい」と熱い思いを語ってくれた。

手作りの彫刻などを売る土産屋を営むおじいさんは、商売のかたわら、旅行者に観光スポットの案内をボランティアでやっているという。毎年、滝の凍結の様子を見に行っては、凍結状況を観光客に知らせているのだと話してくれた。

過疎化、高齢化が進む檜原村であるが、そこには村を元気にしたい、という住民の思いがあることを知った。この思いは、全国の過疎化が進む場所における普遍的な願いではないかと思った。

私はこの人達の村に対する思いや、檜原村の魅力を多くの人に伝えたいと思い、多摩探検隊で番組を制作することを決めた。本番の撮影では、村役場でいきなり村長インタビューに成功したものの、初めてのディレクターでうまく仕切れず、レポーターや撮影クルーには多大な迷惑をかけた。そして、編集が思うように進まず、落ち込むことも多々あった。

しかし、多くのゼミ生の応援、そして何より檜原村で出会った人々の思いを伝えたいという気持ちから、なんとか番組を完成させることができた。結局、事前取材からはじまり、撮影に追撮と、四回も檜原村に足を運ぶことになった。一〇月から撮影をはじめ、完成したのは初めて檜原村に行ってから約半年が経った頃だった。こんなに半年間が短く感じられたのは初めてだった。

番組制作を通して、私自身がこの檜原村を深く知ることにつながった。つらい経験もあったが、普段の生活では決して出会うことのない人々の思いに触れることができた。私は、そうしたものを番組の中に込めたつもりだ。

自分で企画し、自分で事前取材に行き、そして、ゼミ生の応援を得て作り上げた番組。わずか十分間の番組であるが、私にとっては、大学時代の大切な宝物となった。

二〇〇九年六月、私は久しぶりに檜原村を訪れた。日々の生活の中で、ふとこの地を思い出し、行きたくなったのだ。以前立ち寄った食堂に入ると、あのときの女性店員が働いていた。私に気が付くと、「お久しぶり」と笑顔で話しかけてきた。私にとってその言葉は、「お帰りなさい」と言っているような気がした。

多摩探検隊がなければ決して行くことのなかった檜原村だが、気づけばこの地は、第二の故郷になっていた。

# by tamatanweb | 2009-12-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 20歳。初めての冒険と挑戦   

総合政策学部 3年 浦野 遥



私が二〇歳になって初めて訪れた場所は、多摩地区唯一の村だった。さらに言ってしまえば私が二〇歳になって初めて着た服は、ジーンズにTシャツにスニーカー。背中にはリュックサックを背負い、腕には腕章がつけられていた。どこから見てみても、とても大学生には見えない格好で、私は電車に乗り込んだ。

私がリポーターを務めた「多摩あるきたい!檜原村編」は、「多摩探検隊」の新企画ということもあってか、撮影の仕方やレポートの仕方など、全てが今までにないものだった。訪れた場所は多摩地区唯一の村「檜原村」だ。歩いて出会った人に話を聞き、名物があれば食べ、自然に触れ合って、檜原村の魅力を伝えることが私の任務だった。最初は、場所も名物もまったく想像できない「ヒノハラムラ」に私は困惑した。「私という媒体を通すことで、檜原村の良さが伝わらなくなってしまうのではないか」という不安が、撮影当日まで消えなかった。しかし、撮影の前日は私の二〇歳の誕生日だったこともあり、二〇歳の最初に自分の殻を破った挑戦がしてみたかった。素直に自分の感性で、精一杯やってみたら、きちんと観ている人に伝わるはず。そう言い聞かせて興奮や緊張の入り混じっている自分を落ち着かせ、前日は早い時間に眠りについた。

撮影当日、私は早朝五時に起きた。まだ空は暗い。眠たい目をこすりながら、二〇歳らしくない姿で家を出た。電車の窓を流れる景色は、どんどん緑が増していった。また、檜原村には電車が通っていないため、電車を降りた後にバスを乗り継ぐ。山を登るバスの中、私はハイキングに来たような気分になって、前日緊張していたのが嘘のように楽しんでいた。バスから見える木々がキラキラ輝いていたこと、空気はとても澄んでいたこと、都心とは違ってとても涼しかったこと。それらは今でも鮮明に覚えている。

やっと檜原村に着くと、村役場で村長さんに話を伺った。突然押し掛けたのも関わらず、村長さんはたっぷりと檜原村の魅力を教えてくださった。そしてそこから、私の檜原村探検が始まったのである。日本の滝百選に選ばれた「払沢(ほっさわ)の滝」を目指し、山を登った。途中、名物のお豆腐を食べた。ジャガイモが丸ごと入った肉じゃが定食も食べた。たくさんの人や動物に出会い、会話を楽しんだ。そしてやっと滝に着いたときは、朝五時起きで眠いことも、四時間も歩いた疲れも、全てすっ飛ぶほど嬉しかった。この感動を、番組を観てくれている人にも味わって欲しいと素直に思った。感じたことや、目に見えたものは全て話をした。伝わりにくいものは、分かりやすい言葉に置き換えて、リポートした。

二〇歳になって初めての任務は大きいものだったが、おかげで私は言葉の重みを実感した。そして自分が人に情報を伝える側になって初めて、伝えることの素晴らしさ、難しさを知った。

「ヒノハラムラ」。そこには、日本滝百選のひとつ「払沢の滝」がある。

「ヒノハラムラ」。そこでは、ジャガイモが丸ごと入った、肉じゃが定食が食べられる。

「ヒノハラムラ」。そこには、毎日たくさんの人が訪れ、たくさんの人が生活している。

「ヒノハラムラ」。そこは私が大好きな、自然の魅力あふれる村である。

# by tamatanweb | 2009-12-01 00:00 | 制作日誌

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 私と昭島の子どもたち   

総合政策学部 3年 小原美穂

2009年3月25日。中央大学の多摩キャンパスで卒業式が行われたこの日、私は大学に向かう前に、東京都昭島市へ向かった。FLP松野良一ゼミのプロジェクトである「昭島子ども放送局」に参加したつつじヶ丘南小学校の子どもたちが、同じ日に小学校を卒業する。この「昭島子ども放送局」で、私はプロデューサーという立場でプロジェクト全体の運営を行った。プロジェクトの初日、ものすごく緊張しながら歩いた小学校への道のりを、この日再び歩くと、当時の思い出が次々と思い出された。

私と小学生が初めて会ったのは、2008年、11月8日。子ども放送局では、11月に毎年、昭島市内で2日間かけて行われる産業祭りを小学生たちが取材し、VTRを制作している。私たち大学生がそのサポートをする。1日目に事前取材を行い、2日目に実際にカメラを回し、お祭りの様子をリポートする。今回も12人の小学生が参加した。どの子たちも初めは緊張している様子だったが、班の中の話し合いが進むにつれて、だんだんと笑顔が見られるようになってきた。ただ1人、女の子のAちゃんは作業がどんどん進んでも、なんだか浮かない顔でいる。その子のことが気になってしまい、時間を見つけてはAちゃんの班へ行ってみた。撮影が進むにつれ、何回もリポートを続けていくうちに、彼女にもだんだんと自然な笑顔が出てきた。でも、みんなで休憩している時、なかなかみんなの輪に入れず、一人だけ離れて座っている。「Aちゃんは、子ども放送局をやってみて、何か変わることができたのだろうか・・・」。お祭り会場からの帰り道、Aちゃんと2人で歩きながら、ふと考えてしまった。

3日目、小学校で編集、上映会を行った。上映会では、自分たちのリポートが大きなスクリーンに映し出され、たくさんの人が見て笑い、そして拍手をする。舞台挨拶するときも、最初にあった時より何倍も、子どもたちは堂々と話している。事前取材から撮影、編集、そして発表会までを自分たちの手で行うことで、自信がついたのかもしれない。たった3日間の経験で、ここまで子どもたちに変化が見られるとは思っていなかった。自分がこのプロジェクトで、子どもたちに何かを残せたのかもしれない。そう思い、嬉しい気持ちでいっぱいになった。

上映会も終わり、子どもたちを校門前まで見送る。しばらく子どもたちと会えなくなると思うと、少し寂しい気持ちになり、いつもより遠くまで見送りに行った。子どもたちと別れ、私は小学校まで戻ろうとすると、1人だけ私についてくる。Aちゃんだ。どうかしたのかと聞くと、「本当は私だけはみんなと逆方向なんだ。でも、今日はみんなと一緒に帰ろうかなって思って・・・」とAちゃん。少し遠回りになるけどみんなと一緒に帰るなんて、本当に些細な変化なのかもしれない。けれど、Aちゃんがもし子ども放送局を経験しなかったら、そこまで積極的になれなかったかもしれない。同級生といっしょに帰っていくAちゃんの後姿をみながら、私は子ども放送局をやって本当に良かったと思った。

プロジェクトを振り返ってみると、私自身、プロデューサーとしてもっとこうしておけば良かったと思う点がたくさんある。もしかしたら、自分ではなく他の人が代わりを務めた方が、もっとうまくいったかもしれない。そんな事を考えているうちに、あっという間に卒業式が行われる小学校に着いた。久しぶりに会う子どもたちは、前よりも何倍も大人っぽくなっている。子どもたちが撮影したVTRのDVDを、1人1人に「おめでとう」と言いながら渡していく。最後にAちゃんの番になった。DVDを手渡すと、「子ども放送局、楽しかったよ」。思いがけないAちゃんの言葉に、胸がいっぱいになって、返す言葉がみつからなかった。この子ども放送局を通して、私自身の方こそ何倍も成長させてもらったような気がする。

私たちは子どもたちに別れを告げて帰路に着いた。歩き始めてしばらくして振り返ると、遠くに、ずっと手を振り続ける子どもたちの姿があった。今回、プロデューサーとして子ども放送局を運営することができて、そして、この子たちに出会えて本当によかった・・・。私は、強くそう思いながら、またゆっくりと歩き始めた。

# by tamatanweb | 2009-11-01 00:00 | 昭島子ども放送局

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 表紙・裏表紙を作るしごと   

法学部 3年 齊藤 綾



2008年の、確か10月も終わりに近づいたころだったと思う。私は前田先輩の作っていたVTR、「猫のまち青梅」の番組プロデューサーに任命された。番組プロデューサーは、本編が始まる前のスタジオ部分・本編が終わった後のスタジオ部分を作り、VTRを「多摩探検隊」の番組として完成させることが仕事である。先輩方からは、「番組の表紙と裏表紙を作る仕事だ」と教わってきた。その他に、予告編を制作するという役割もある。

私が担当したのは1月放送分だったので、ケーブルテレビに納品するのは12月下旬。時間に余裕はあったと言える。しかし、私は過去のスタジオ撮影に参加したことがなかった。そのため、どんな風に原稿を書くのかも、どんな風に撮影を進めるのかも分からない。今までスタジオ撮影に参加したゼミ生からアドバイスをもらい、過去の「多摩探検隊」を見直し、なんとか11月の初めに撮影をした。不安だらけで、他のゼミ生に助けられながらの撮影。本当に頼りないプロデューサーだった。

早速編集をして、ゼミでチェックをしてもらったところ、「キャスターとリポーターの区別がつかない」という指摘があった。この回では、リポーターとキャスターがスタジオに登場し掛け合いをするのだが、確かに服装やしゃべり方の差がない。そこまで考えが及ばなかった、私の演出不足だった。その結果、撮影し直しである。先輩方からのアドバイスをもとに、原稿を考え直す作業が続く。途中、詰まってしまって松野先生にたくさんのアイデアをいただいた。ようやく原稿が出来上がって、2度目の撮影にこぎつけたのは、12月に入ってからだった。

たった数分のスタジオ。本編のVTRの制作に費やされる時間や労力に比べれば、格段に少ない時間で済む作業と言ってもいいかもしれない。しかし、たった数分を作り出すために、私はたくさんの人の力を借りた。本編のVTRの作り方とはまったく異なることに戸惑いながら、なんとか「猫のまち青梅」の表紙と裏表紙を作った。いろいろと改善すべき点はあったけれど、先生にはおまけで及第点をもらった。

いつもはWEBで観ることが多い「多摩探検隊」。でも1月放送は、自宅のテレビで観た。

# by tamatanweb | 2009-07-01 00:00 | 制作日誌