人気ブログランキング | 話題のタグを見る

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 悪天候の撮影から学べたこと   

法学部国際企業関係法学科二年 尾崎梓

 今年の春休み、私は「たまゆり子ども放送局」に参加した。これは、大学生が川崎市多摩区・麻生区の子どもたちに番組作りを教えることでメディア・リテラシーの向上を目的としたプロジェクトであり、今回は「ミニたまゆり」というイベントを二人の子どもにリポートしてもらうことになっていた。
 「ミニたまゆり」とは田園調布学園大学を一つの街にみたて、子供たちが職業体験をしたり納税したりして、社会のルールを学ぶイベントである。私はこの企画の詳細を聞いたとき、大人の社会を縮小化した街を子供が主体となって作っていくという点に面白さを感じた。このイベント自体に興味を持った私は、ぜひこのプロジェクトに関わりたいと思い、撮影を補佐するAD(アシスタント・ディレクター)として参加することにした。

 そして迎えたミニたまゆり当日、撮影は順調に進んでいた。しかし昼食を控室で食べている時、悲報が飛び込んできた。なんと大雪により、午後のイベントを中止するというのだ。結局予定していた内容全てを撮り終えることは出来ず、その日は解散となってしまった。

 それから約一か月経った三月の上旬、前回撮れなかった分の再撮影を行うことになった。少し期間があいたためか、再開したときの子供たちは少し硬い表情をしていた。その顔を見て、私は子供がこの再撮影をどう感じているのか気になった。子供たちの記憶にはイベントの雰囲気や内容がどのくらい残っているのだろうか。間隔があくとどうしてもその日の記憶は薄れてしまう。曖昧な記憶を再び掘り起こしながらリポートするのは、子供たちにとって大変なことなのではないか、と様々な不安を抱いていた。私は子供たちに番組作りを教えるにあたって、撮影は「疲れた」よりも「楽しかった」という印象を強く持ってもらいたかったため、負担をあまりかけたくなかった。しかし、撮影が始まるとすぐに私の心配は杞憂だったことに気づかされた。時間が経つにつれ子供たちの緊張は次第にほぐれていき、最後まで明るく元気なリポートをしてくれて、撮影は無事終了した。

 そしてすべての撮影が終わり、4月上旬に上映会が行われた。上映会には撮影に参加したリポーター役の小学生の二人はもちろん、インタビューを受けてくれた子供たちや保護者の方々、お世話になった学生さん、そしてイベント主催者の先生等、多くの方が足を運んでくださった。時折歓声が湧いたり笑いがおきたりと、上映会は終始和やかな雰囲気だった。上映中、子供たちは自分たちの映る映像に照れた表情をみせながらも楽しそうに見ていて、最後には楽しかったと感想を言ってくれ、とても安心した。そして何より、最後に子供たちや保護者の方の笑顔が見られたことが私は本当にうれしかった。

 今回参加した「たまゆり子ども放送局」はイレギュラーの連続だった。悪天候によって撮影が中止になることや再撮影を行うことは極めて稀なケースだと後で聞き、私は実は大変な現場に居合わせていたのだと気づかされた。しかし初めてのADでこのような大変なプロジェクトに参加出来たのは、私にとっては貴重な体験だったと思う。初めてのことばかりで苦労や驚きで大変な撮影ではあったが、このプロジェクトに参加できて本当によかったと思っている。上映会を終え、帰っていく子供たちの笑顔と保護者の方々の温かい表情は今でもしっかりと覚えている。子ども放送局は自分の経験を積むためばかりでなく、誰かの喜びのためになることが出来るプロジェクトだと思う。私はそこにとても魅力を感じ、そして今後もぜひ「たまゆり子ども放送局」に関わっていきたいと考えている。

# by tamatanweb | 2014-07-01 00:00

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 全身でコミュニケーションをとるということ   

文学部人文社会学科フランス語文学文化専攻三年 佐伯綾香

 私は、第117回多摩探検隊「消えゆく伝統和紙~軍動紙をたずねて~」のリポーターを務めた。軍道紙とは、東京都あきる野市でかつて盛んに漉(す)かれていた紙のことだ。軍道紙は、人々が自らの手で漉き、日用品に利用する、生活に密着した和紙だった。一度はその伝統を絶やしてしまったものの、現在様々な方の努力によって復活し、受け継がれている。

 番組の内容は、軍道紙にゆかりのある方々の元を訪ね、軍道紙について、過去・現在・未来の軸で追っていくというもの。軍道紙を最後まで専業で漉き続けた方や、実際にアートに利用している方、紙すき体験の場を提供することで後世に残そうとする方々にインタビューを行った。
 番組のディレクターから「リポーターをしてみないか」と頼まれたとき、私は、リポーターという大役が自分に務まるのだろうかと不安な気持ちになった。しかし、軍道紙は人々の生活に欠かせなかった貴重な和紙であり、後世に伝えていくべき価値のあるものだ。
「軍道紙に関わった方の元へ直接足を運び、人々のどのような思いが詰まって、今もなお存在しているのかを知りたい」。そう思った私は、リポーターを引き受けることにした。

 一番印象に残っているのは、軍道紙を最後まで漉き続けた職人、萩原吉種(よしかず)さん(96)のインタビューだ。
取材に向かう前に、萩原さんはご高齢で耳があまり聞こえないということを聞いていた。私は、萩原さんからどのようにお話を引き出せばよいのか悩んだ。
「会話がうまくかみ合わないこともあるかもしれないが、不審な顔を見せるのではなく、笑顔を忘れずにいよう」。不安な気持ちもあったが、そう決めて臨んだ。

 萩原さんの自宅は、空気の澄んだあきる野市にあった。大きく深呼吸をし、ドアの前でチャイムを鳴らした。少しすると、萩原さんの息子さんのお嫁さんが顔を出した。よくいらっしゃいましたねと、温かく歓迎してくださった。お家に上がらせていただくと、萩原さんがこちらに向かって来た。96歳とは到底思えないほど、しっかりとした足取りだった。
「いよいよ始まる」。私は聞きたいことを反復して自分に言い聞かせ、心を落ち着けた。
 さっそくインタビューが始まった。ディレクターが紙に質問を書き、萩原さんに見せるという形でインタビューは進んでいった。しかし、私の声が聞こえていないこともあって私の話すタイミングと萩原さんの答えるタイミングはバラバラだった。意思疎通ができていない状況だった。
 懸命に萩原さんの目をみて質問をしているつもりなのだが、なかなか伝わらない。
 「このままではだめだ。これでは、ぎこちない掛け合いになってしまう」
 そう思った私は、萩原さんが私の言葉を理解できているのか一語一語ゆっくり確かめながら進めていくことにした。口の開け閉め一つ一つに神経を集中させた。
 また、少しでも安心して答えてもらえるよう、わかりやすく反応するのを心がけることにした。いつもよりも大きくうなずいてみたり、目を大きく開いてみたり、眉毛の動きを意識してみたり…。すると、私の心がけが伝わったのだろうか、萩原さんも私の目を見て、語り掛けてくれるようになった。
 さらには、笑顔も見られるようになった。昔のことを尋ねると、萩原さんは紙すきに使っていたという道具まで見せてくださった。軍道紙について話す萩原さんの姿は本当に生き生きとしていて、目が輝いていた。
インタビューの最後に、こう語っていただいた。
 「本当に来てくれてありがとう。私は、君たちが学生だから、これが最後だと思って取材を受け入れたんだ。番組の完成を楽しみにしていますよ」

 私は、目頭が熱くなるのを感じた。

 今回の経験を通して感じたことは、コミュニケーションの手段は言葉だけではないということだ。
会話が十分にできない状況であっても、表現方法はたくさんある。身振り手振りやアイコンタクト、表情…。相手に心を開いてもらうためには、全身で語り掛けることが大切だと感じた。

 私は電車に揺られ、あきる野の地を後にした。車窓に広がる緑を眺めながら、私は、軍道紙について語る萩原さんの生き生きとした笑顔を思い浮かべた。


# by tamatanweb | 2014-07-01 00:00

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 思いを伝えること   

法学部法律学科二年 西巻郁里

 大学2年、私の夏休みはなかった。しかしこの夏に経験したことは、決して忘れることのできない思い出になった。 それは「多摩探検隊」の取材と撮影だった。「多摩探検隊」は、私たちFLPジャーナリズムプログラム松野良一ゼミが制作し、放送している10分番組。多摩にある話題や魅力を取り上げているこの番組で、私は第117回の番組のディレクターを務め、軍道紙という和紙についてリポート形式の番組を作った。

軍道紙とは、あきる野市にある東京都唯一の手漉き和紙で、東京都無形文化財(工芸技術)にも指定されている。今回私は、ある雑誌に掲載された一つの記事で、軍道紙のことを知った。そこには「アートで多摩の伝統をつなぐ」という文字が踊り、色鮮やかな美しい花の絵があった。それが今回取材した一人の日本画家、阿部アヤさんの軍道紙を使った絵だ。今まで10年近く続いてきた「多摩探検隊」で、なぜこれほどまでに魅力的な話題が放置されていたのだろうか、と私は不思議に思った。

調べてみると、現在軍道紙を作っている場所はなんと「あきる野ふるさと工房」だけだという。そこで軍道紙を作っている方の思いを伺おうと決め、まずは電話だ!と意気込んだ。初めての番組ディレクター、初めての取材交渉。緊張で少し汗ばむ手で電話を握り、明るい声ではきはき印象良く話そう、とばかり考えていた。何回か呼出音を聞いたあと「もしもし」という年かさの男性の声で応答があった。しかし、笑顔で電話をした私は、数分後には泣いていた。「この工房はね、市からお金をもらって、やっとの思いで経営しているんです。職人でもない私たちが軍道紙に対する思いなんて、話すことはできません」と断られてしまったのだ。それでも、東京唯一の手漉き和紙を作る方としての思いを伺えないかとしつこく交渉した結果、ついに電話口で「取材はやめましょう。難しい話題です。学生さんには無理ですよ」と言われてしまった。目の前が真っ暗になった。

軍道紙は1967年に最後の職人さんが紙漉きを辞め、一度は伝統が途切れてしまった和紙だ。今回電話した工房で紙を漉いている方は、昔からの職人ではなく、紙漉き体験のために仕事を任された職員の方であった。工房は、市の補助金で紙漉き体験を提供しているものの経営赤字になり、閉館となってしまったこともあったという。今まで「多摩探検隊」で取り上げられなかった理由は、ここにあったのだ。

しかし、私は軍道紙を実際に見るため、電話をする前に工房を訪ねた時のことを思い出した。そこで見たのは、漉く人の手の温もりが伝わってくるような、あたたかい和紙であった。こんな手漉きの和紙がまだ東京にあるのだと、番組にして視聴者に伝えたい。その思いだけを胸に、電話口で必死に頭を下げて、紙漉き体験の撮影にだけなんとか応じて頂くことができた。

緑の深い山のふもとにある工房には、バスに乗って向かった。撮影当日は、真夏日だった。しかし、やかましい蝉の声も私の耳には入ってこなかった。一度は取材を断られた「あきる野ふるさと工房」で、撮影がうまく運ぶだろうか・・・。迷惑をかけてはいけないという緊張で、胸が張り裂けそうだった。無事に撮影を終えたあと、お礼を言うために工房の方に挨拶に行った。すると、「今回の取材は西巻さんにとっていい社会勉強になったと思うけど、こういうことは熱意のある方が勝つからね。お疲れ様でした」と笑顔で言ってくださったのだ。必死の思いで電話をかけた後、部屋で号泣したことを思い出した。わだかまりがすっと取れた気がして、熱いものがこみ上げてきた。

しかし、この撮影だけでは10分番組にすることができない。そこで、最後まで軍道紙を漉いていた元職人さんがいることを知り、その方に思いを伺えないかと考えた。微かな希望を胸に電話をかけた矢先、再び絶望的な壁にぶつかった。元職人である萩原さんは、96歳というご高齢で、耳が聞こえなかったのだ。リポーターを使うには、マイクを使ったインタビューが成り立たなくてはならない。どうしようかと悩んだが、ご無理を言って画用紙の文字を読んで、質問に答えて頂くことにした。

萩原さんは昔のことを本当によく覚えていた。自分の祖父よりも年上の萩原さんがご自身の言葉で語ってくれたのは、今や誰も語ることができない軍道紙の過去だった。画用紙をめくりながらのインタビューは、タイミングの工夫などが大変だったが、それでも丁寧に答えて下さった姿が心に焼きついた。撮影後、画用紙に「インタビューをさせて頂き、本当にありがとうございました」という文字を書いて差し出すと、萩原さんはそれを見てにっこりと笑って「学生さんが取材に来てくれたことは本当に嬉しいです。これは私の宝物にします」と、その画用紙をご自身の保管していた軍道紙と一緒に、大事そうにしまってくれた。諦めないで、軍道紙を取材してよかった・・・。取材に協力してくださった方々への感謝で、胸がいっぱいになった。
その後、先述した日本画家の阿部アヤさんにもインタビューをし、編集を終えて第117回多摩探検隊「消えゆく伝統和紙~軍道紙をたずねて~」は無事に放送されることとなった。思いを一生懸命に伝えれば、応えてくれる人が必ずいる。涙を流して電話をした時の思いは、決して水の泡にはならなかったのだ。

# by tamatanweb | 2014-06-01 00:01

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 フェルトアート作家との出会い   

経済学部公共環境経済学科二年 堀内新

 2014年2月、多摩探検隊『フェルトアート作家~羊毛フェルトに命を込めて~』が放送された。この作品は、フェルトアート作家の中山みどりさんを取り上げたものだ。中山さんは、羊毛フェルトを使って本物そっくりの動物の人形を作っている。今回、私はこの番組制作にディレクターとして関わった。

このプロジェクトの始まりは、偶然HPで中山さんのフェルトアートを見つけたことだった。そこに映っていたのは、まるで生きているかのような犬や猫たち。私は、思い切って中山さんに取材をさせてほしいという主旨のメールを送った。すると、すぐに快諾の連絡がきた。

「こんにちは、中央大学の学生さんですか」。後日、西武国分寺線鷹の台駅前で待っていた私にそう声を掛けてくださったのが中山さんだった。とても上品な方だなと思ったのを覚えている。近くのカフェに入り、フェルトアートについてのお話を伺った。中山さんがフェルトアートと出会ったきっかけ、今、どんな思いで制作しているのかなど一通り質問し終わった後、「これは番組になる」と確信した。

しかし、フェルトアートの撮影交渉は順調にはいかなかった。私が中山さんの自宅で制作工程の撮影をしたいことを伝えると「制作工程の撮影は、自宅ではなくカフェでしてください。ほかの取材や撮影はすべてそこで行っていますから」と断わられてしまったのだ。私はとても悩んだ。「フェルトアートの制作工程が分かればいいのだからカフェでも大丈夫なのではないか」そう考えたこともあった。しかし、悩んだ末に「フェルトアートの制作工程はカフェで撮るわけにはいかない」。そう思って、直接会ってお話する機会を設けて頂いた。

 後日、カフェで中山さんとオレンジジュースを飲みながら話し合った。

「私は、フェルトアート作家としての中山さんを描きたいんです。制作工程は、作り方が分かるだけではなくて、中山さんがいつも作っている場所で作ってもらいたい。そうすることで息遣いや、込める思いを表現したいんです」。2時間にも及ぶ話し合いの末、中山さんのご自宅で撮影をさせていただけることとなった。

その後は、お互いに様々な話をした。撮影とは関係のない、私が大学一年の時、ライフセーバーとして伊豆で働いた事や、中山さんの美術大学時代についての話など。何の変哲もない雑談だったが、中山さんとの距離はぐっと近づいたように感じた。ここでしっかりと中山さんの人柄を知ることができたおかげで、その後の撮影でのコミュニケーションを円滑にとるができた。</br>
8月16日から始まった撮影は、中山さんの多忙なスケジュールの合間を縫って行われた。そして、最後の撮影の日。私たちは中山さんのご自宅に伺った。撮影が終わり、お茶を頂いた時、私たちが中山さんに撮影の依頼をした時の話になった。中山さんは、「撮影の話が来たことを教え子の人たちに話したら、絶対に断ったほうがいいって大反対された。でもね、カフェで一緒に話しをした時、人柄を知って、撮影に協力しようって思ったんだよね。誕生日にはお花もくれたし、細かな気遣いの一つ一つがとてもうれしかった。その誠実さを忘れずにね」と話してくださった。

その言葉に、不器用ながらも必死に取材をし続けた半年間を思い出し、涙があふれた。


# by tamatanweb | 2014-06-01 00:00

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 「中大生」という細く強い糸を手繰って~「台湾二二八事件」プロジェクト   

総合政策学部政策科学科プロフェッショナルコース二年 添川隆太

 二〇一三年九月、私はある取材のため台湾へ行った。取材をする相手は八十歳の台湾人女性、王嬋如(せんじょ)さん。私が六十近く歳の離れた嬋如さんのもとを訪れたのは「台湾二二八事件」について取材をするためだった。

同事件とは、日本敗戦の後に、中国国民党に接収されたばかりの台湾で起こった。台湾人(本省人)と大陸からやってきた中国国民党(外省人)の間の抗争である。本省人たちは、日本敗戦後すぐは国民党を歓迎した。しかし、国民党の役人たちによる物資の横流しや賄賂の要求が横行し、台湾の人たちは、「犬(日本)が去って、豚(国民党)が来た」と揶揄した。日本人は犬のようにうるさいが番犬になった。しかし、国民党はただ貪り食うだけで役に立たないという意味で使われたという。

一九四七年二月二七日、台北で闇タバコを販売していた台湾人女性が、専売局の係官に暴行されるという事件が起こる。騒いだ市民に対して係官が発砲し、青年一人が死亡する。この事件がきっかけとなり、翌二八日から台湾人による抗議運動が台湾全土へと広がっていった。これに対し国民党は武力による制圧を行い、多くの台湾人を拷問、虐殺した。この事件による犠牲者は何万とも何十万とも言われているが(公式発表は二万八千人)、事件終息後に国民党による戒厳令がただちに敷かれたため、未だに正確な犠牲者数は分かっていない。戒厳令が解除されたのは一九八七年のこと。事件から四十年が経過して、ようやく台湾でもこの事件について発言できるようになってきた。

二二八事件の受難者には日本で学んだ経験を持つエリートが多くおり、その中には中央大学で学び、台湾に戻って活躍していたOBも含まれていた。私の所属するFLPジャーナリズムプログラム松野良一ゼミでは、「台湾二二八事件プロジェクト」として二〇一二年から中央大学出身の二二八事件受難者の家族から話を聞き、その証言を記録するという活動を行っている。事件を知る人の高齢化が進んでおり、彼らの言葉は貴重な歴史的証言である。

私はゼミに入るまで二二八事件を知らなかった。昨年の三月にプロジェクトに参加することが決まり、日本による植民地統治、日本の敗戦と国民党による台湾接収、二二八事件、戒厳令と白色テロ時代、戒厳令解除後から現代の民主主義体制に至るまで、台湾の現代史について勉強を重ねた。そして九月一〇日、私は取材のため、羽田空港から飛行機に乗り台湾へ向かった。

取材対象者の嬋如さんの父、王清(せい)佐(さ)氏は日本から台湾に戻った後、弁護士として活躍し、一九四六年には高雄市の議員にも当選した。二二八事件で清(せい)佐(さ)氏は、若者を扇動した嫌疑をかけられ逮捕され、約一〇〇日間拘留された。拘留中、清佐氏は手を針金で縛られ木から吊るされるという拷問を受けた。その後、清佐氏は幸運にも釈放されたが、事件のショックと拷問による傷が原因で手が自由に動かせなくなった。心と身体に深い傷を負ってしまった清佐氏は事件後、社会に復帰することはできなかった。


日本から突然やってきた見知らぬ一学生が、その辛い過去の記憶について取材することは、失礼にあたらないだろうか。取材をするうえで、それが大きな不安だった。

九月十一日、私は高雄市に住む嬋如さんのもとを訪れた。とても八十歳と思えないほど元気な方だった。また、嬋如さんは小学校の四年生まで日本人と一緒に学んでいたため、日本語がとても流暢だった。

取材は三時間にも及んだ。清佐氏の生い立ちから二二八事件、そして事件後の生活についてまで、嬋如さんはどの質問にも明るく丁寧に答えてくれた。しかし、二二八事件についての感想を聞いたとき、悲しそうな表情に変わった。

「どうして二二八事件で逮捕されたのか分からない。無実だったのに、罪を着せられた。父が事件に遭わなければ、もっと弁護士として活躍していたと思います。でも、あきらめるしかないです」

この言葉を聞いたとき、嬋如さんが六十年以上抱えてきた悲しみに、少しだけ触れることができたような気がした。

取材を終えた私は、日本に帰り今回の取材を一本のルポルタージュにまとめた。その時には取材前の不安は無くなっていた。それは取材の際に嬋如さんが言ったこの言葉があるからだ。

「おそらくあと何年か経ったら台湾でも、二二八事件のことはもう忘れられてしまいます。話す人が、いなくなってしまいますからね。しかし、今回、父の大学の後輩であるあなた方が来てくれたことを大変うれしく思います」

私はこの事件を知ったこと、台湾で嬋如さんにお話を聞かせてもらったことを、無駄にしたくなかった。それは使命感という大それた気持ちというより、「この事件を伝えていきたい」という素直な気持ちだった。日本統治が終了した台湾で、こんな事件があったという事実を誰かに伝えることが、私ができる唯一のことだと思ったのだ。

今回、私と清佐氏や嬋如さんを結んだのは「中大生」という細い一本の糸だった。しかし、その糸は、細いけれども、国や時代を越えて、強く確かに繋がっていた。


# by tamatanweb | 2014-04-01 00:00